「東京急行電鉄(東急)」タグアーカイブ

スタンプ物語38・東中野駅

中央線屈指の撮影場所

菜の花と桜のコントラストが絶景

スタンプは「中央線と桜」。西口の山手通りにかかる桜川橋の先の線路沿いに桜並木があり、土手には菜の花も咲いています。都区内の中央線では市ケ谷~飯田橋間と並ぶ桜の名所で知られ、シーズンは撮影者でも賑わいをみせています。現在、環状道路の工事が延々と続いており、西口も2012年度完成の駅ビル「アトレ」の建設が現在も続いています。桜並木は当初道路整備で伐採される予定でしたが、当面は現状のままで維持されることになりました。

東中野のかつてのスタンプ(現在はなし)には、神田川と氷川神社が描かれていました。神田川は反対側の東口から近く、こちらも春先は川沿いの桜並木が見事です。氷川神社は西口から南下して徒歩5分。長元3年(1030)、源頼信が平忠常征討の際、武蔵国大宮氷川神社より勧請したもので、旧中野村の総鎮守となりました。9月中旬の土・日曜には例大祭が行われ、各町会から御輿や山車が出て盛り上がります。境内には屋台がたくさん出て、あの雰囲気でB級グルメを味わうのも楽しみのひとつです。
次回の停車駅は中野駅です。


より大きな地図で 東中野駅 を表示


※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。

スタンプ物語11・渋谷駅

地名の由来となった金王丸と

欠かせない忠犬ハチ公・涙の物語

スタンプは東口から徒歩5分の「金王八幡宮」(渋谷3-5-12)です。江戸期には江戸八所八幡の一つとして崇敬を集めました。総漆塗りの現社殿は慶長17年(1612)、春日局が家光将軍決定の御礼として建立したといわれ、渋谷区最古の木造建築物。よく戦災から免れたものです。摩天楼のような高層ビルが建ち並ぶ喧騒の中に鎮座し、渋谷の街を見守り続けています。
渋谷の地名は、源頼朝の父義朝の腹心だった渋谷金王丸の姓に由来しています。ここに金王丸の一族渋谷氏の拠点・渋谷城がありました。神社自体は寛治6年(1092)、渋谷氏の祖河崎基家の創始でさらに500年以上前にさかのぼることになります。当初は元渋谷八幡宮といわれていましたが、金王丸の名声にちなみ現在の神社名になったそうです。
今回は来年の大河『平清盛』にちなんで、この渋谷金王丸にスポットを当ててみます。平治元年(1159)12月27日、平清盛に敗れた源義朝は、東国で再起をはかろうとして逃走。途中、義朝は家人の鎌田政家(正清)の舅にあたる尾張国野間(愛知県美浜町)の長田忠致を頼ることにしました。長田屋敷で新年を迎えて、出立しようとしていた正月3日、忠致は義朝をこのまま逃がすより、討ち取って平氏の恩賞に預かろうと画策。そこで武勇の誉れ高い義朝に朝風呂をすすめ、丸腰のところを3人の剛の者が襲うことにしたのです。しかし、入浴中の義朝には従者の金王丸が太刀を携えて控えていました。ところが用意周到に忠致は替えの服をそろえておらず、金王丸が服をとりに場を離れた隙に陰に潜んでいた長田の家来3名が湯殿に入り、義朝に襲いかかり、義朝は38歳で絶命したのです。服をとって湯殿に戻った金王丸は、たちまち3人を斬り伏せ、玄光法師とともに主君の仇を討とうとしたのですが、すでに長田父子は恩賞に預かるため、義朝の首を持って京都へ向かったあとでした。やむなく金王丸は野間を去り、義経の母常盤のもとを訪れて、義朝の最期を報告します。その後、義朝の菩提を弔うため、剃髪して僧侶となり諸国を行脚したといいますが、消息は不明で、全国に金王丸の墓が伝わっています。
また一説によれば、剃髪後は土佐坊昌俊と変名したといわれます。土佐坊は平家滅亡後の文治元年(1185)10月に頼朝の命を受け、京都の義経邸を襲撃し捕えられて斬られる人物です。もしこれが真実なら、前半生をみるとむしろ義経に親近感が湧きそうな気がしますが、敬愛する主君の子供同士が争うのをしのびなく、義経に討たれることを覚悟で志願したともとれます。『義経記(ぎけいき)』によれば、鞍馬で捕えられた土佐坊を義経は鎌倉へ返そうとしましたが、怖じることなく自ら死を願い出て斬られたといいます。

話が長くなってしまいましたが、渋谷駅といえば忘れてはならないのが、過去のスタンプ(現在はなし)にも描かれていた忠犬ハチ公です。JR駅では「ハチ公」の名のつく改札・出口も設けられており、駅前のハチ公像は待ち合わせ場所として人が切れることはありません。
 ハチは大正12年(1923)、秋田県大館市で生まれた秋田犬で、翌年から東京帝国大学農学部の上野英三郎博士に飼われることになりました。上野教授の邸宅は現在の東急百貨店本店周辺にあり、ハチは毎日最寄りの渋谷駅まで送り迎えしていました。だが、博士に可愛がれた幸せな日々も束の間、一年後の大正14年(1925)5月21日、上野博士は大学で急逝します。その後もハチは帰らぬ主人を毎日待ち続けました。
 ハチが有名になったのは、昭和7年(1932)、朝日新聞に「いとしや老犬物語」に掲載されてからで、以後、敬意を表して「ハチ公」と呼ばれ、忠犬の誉れとして全国的に有名になりました。初代の銅像はハチが存命中の昭和9年(1934)4月21日、渋谷駅前に建立。自身も除幕式に出席する華やかな舞台でした。
 銅像建立から一年後の昭和10年(1935)3月8日、ハチは渋谷駅の反対側にある稲荷橋付近でひっそりと息を引き取ります。享年13歳。遺体は渋谷駅に運ばれ、告別式は人と花輪で埋め尽くされました。この美談は尋常小学校の国定教科書(修身)でも、「恩を忘れるな」と紹介されています。
しかし、太平洋戦争が始まり、戦局が悪化した昭和19年(1944)10月、金属供出で回収。像は溶解されてしまい、像を制作した彫刻家の安藤照も東京大空襲の際に亡くなりました。終戦後、ハチ公像再建の声が高まり、昭和23年(1948)8月15日、渋谷駅前で再建されたハチ公像が除幕された。制作は安藤照の息子・士(たけし)です。

ところで、あまり知られていないことですが、ハチは台東区の上野公園にある国立科学博物館(入館600円/9~17時/月曜〈祝日の場合は翌日〉休)で会うことができます。ハチの死後に寄贈され、剥製が博物館の秋田犬の代表として展示されているのです。銅像や晩年の写真で見るハチは、左耳が皮膚病で垂れていますが、剥製は耳も復元されていますので、ハチと気づかず見落としてしまう人も多いようです。また、ハチの死因は解剖の結果、フィラリアの寄生であるといわれ、その臓器は文京区弥生の東京大学の農学資料館(入館無料/9~17時/土・日曜、祝日休館)で研究資料として展示されています。
次回の停車駅は原宿駅(2012年1月6日更新)です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。
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2011年の鉄道関係のクリスマスイベントなどをまとめてみました

2011年のクリスマス、鉄道関係のイベントを集めてみました。

christmas dessert © by torisan3500

秋田内陸縦貫鉄道
「サンタ列車」を運行します!:トピックス:[秋田名物!秋田内陸線:秋田内陸縦貫鉄道]

鹿島臨海鉄道
クリスマスの日ちょっぴりプレゼントの実施について | 鹿島臨海鉄道株式会社
クリスマス列車走る! | 鹿島臨海鉄道株式会社

東京メトロ、埼玉高速鉄道、東急、みなとみらい線
臨時直通列車「みなとみらい号」を運転します(PDF)|東京メトロ

東京臨海高速鉄道
東京テレポート駅「りんかい線クリスマスステーション」を開催します|インフォメーション一覧 2011年|りんかい線

名古屋市交通局
クリスマス列車・クリスマススタンプラリーを実施します!|お知らせ|お知らせ一覧|名古屋市交通局

京福電気鉄道
嵐電「クリスマス電車」の運行のお知らせ | 沿線イベント情報 | 京都・嵐山の観光に、京都、四条大宮から嵐山、北野白梅町を繋ぐ、嵐電

神戸電鉄
クリスマス列車 運行時刻表

智頭急行
クリスマスイベントとクリスマス列車の運転の開催について

土佐電鉄
土佐電鉄

平成筑豊鉄道
へいちく車両もクリスマスモード! | へいちくネット (平成筑豊鉄道)

※12月22日時点での情報です。もしかしたら変更になっているかもしれません。リンク先の案内をよくご覧になりお出かけください。

実は探していたらもっとあったのですが、応募を締め切ってしまったものや、すでに終わってしまったものが多数ありました。
来年のクリスマスイベントのご紹介はもう少し早めにしたいと思います!

スタンプ物語9・目黒駅

目黒区にはない目黒駅

茶屋坂のついでに目黒不動参詣

今回の目黒駅のスタンプは「爺々が茶屋」。歌川広重の「名所江戸百選」に描かれたものを再現しています。
目黒は江戸時代、将軍の鷹狩り場として知られ、また幕府の庇護を受けた目黒不動がありました。そして将軍が鷹狩や参詣の帰りに立ち寄る茶屋があり、3代将軍家光は百姓の彦次郎が営む茶屋を愛し、彦次郎に「爺、爺」と呼びかけたことから「爺々が茶屋(爺が茶屋ともいう)」という名がついたそうです。この茶屋に欠かせないのが落語噺に出てくる「目黒のサンマ」です。このあらすじを簡単に紹介すると、
「鷹狩で目黒に出かけた殿様が、腹が減ったところにサンマを焼く匂いが漂ってきたので、サンマを取り寄せてご飯のおかずにした。以来、殿様はサンマ中毒になり、家来にサンマを求めると、家臣たちは殿様の健康を気遣ってサンマを脂抜きのパサパサで出した。日本橋魚河岸で求めたサンマではあったが、これではうまいわけがない。殿様が『やっぱサンマは目黒(海から4kmほど離れた場所)に限る』というのがオチ」

この殿様のモデルが家光で、サンマを出したのが彦次郎といわれていますが、殿様は松江藩主松平出羽守という説もあります。「爺々が茶屋」のあった場所は、目黒駅から15分ほど歩いた現在の目黒区三田2丁目の茶屋坂下の一角にある「茶屋坂街かど公園」あたり。途中には「茶屋坂と爺々が茶屋」の案内板が立っています。
96年から始まった毎年9月第1または第2日曜に行われる「目黒さんま祭り」は、目黒駅から徒歩3分の誕生八幡神社手前が会場。無料の焼きたてサンマが振る舞われ、寄席などのイベントもありますが、混雑必至で行列は1時間待ちになるそうです。

現在も参詣客で賑わう目黒不動(目黒区下目黒3-20-26)は駅から徒歩13分。最寄駅では東急の不動前駅がありますが、ここからでも徒歩8分です。目黒不動は正式には泰叡山瀧泉寺といい、大同8年(808)の創建。元和元年(1615)の火災で本堂などを焼失しましたが、寛永元年(1624)に家光によって再建されました。三代将軍・家光が天海の建言で、江戸内に五つの不動(江戸五色不動)を選んだうちのひとつです。この五不動は五行説の五色にちなんだものといわれ、このため山手線の駅名にもなっている目黒・目白はじめ、目赤・目青・目黄と五色の不動が都内にあります。他にも江戸三十三箇所や関東三十六不動の札所でも知られ、境内には独鈷の滝や甘藷先生で知られる青木昆陽(1698~1769)の墓(写真右)なども点在しています。また、目黒駅から目黒通りを西へ徒歩10分のところには、隠れた人気スポットの目黒寄生虫館)(下目黒4-1-1)もあります。公式サイトはこちらです。
最後に余談ですが目黒駅は目黒区になく、所在地は品川区上大崎にあります。区名と駅名所在地が異なるケースは、山手線では他にも品川駅(港区高輪)にも見られます。代々木駅も旧千駄ヶ谷村だったのですが、こちらは区画整理で代々木1丁目となりました。
次回の停車駅は恵比寿駅です。


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スタンプ物語8・五反田駅

開業100周年を迎え

スタンプもデザイン一新

五反田駅のスタンプは2011年にお江戸シリーズのデザインが変わりました。「国道1号線の上の駅」と書かれており、地図上で見るとちょうど駅の中央を突っ切る形で国道1号線が延びており、高架の長いホームが国道をまたいでいます。改札を出た北側が国道1号になるのですが、通行量は多いです。この国道1号は日本橋を起点に大阪に至る全長543.1キロの一般国道で、旧東海道の経路を踏襲する形で流れ、並走して東海道本線や東海道新幹線、東名高速道路なども敷設されています。国道は明治9年(1876)の太政官布告によって一等から三等まで分類され、道の幅員も等級によって規定が設けられました。同18年(1885)には番号が付与されますが、このときは東京~横浜が国道1号、横浜~大阪が国道2号でした。戦後の昭和27年(1952)には新道路法によって東京~大阪が一級国道1号線となり、昭和40年(1965)の道路法改正によって一級・二級の級別がなくなり、一般国道になりました。現在の国道2号線は大阪~北九州で山陽道に該当します。
五反田は目黒川の谷間の低地で、名の示すように田畑の規模を表す五反(一反は10a、300坪)の田に由来します。地名は旧大崎村の小字で、駅が開設された明治44年(1911)のときは一面農地だったといいます。昔から通っていた中原街道は、江戸虎ノ門から平塚中原(神奈川県平塚市)に至る東海道の脇道ですが、最初は江戸への最短として、江戸入り当初の徳川家康が利用し、幕府の鷹狩りにも使われていました。駅北側には三代将軍家光が鷹狩りの折に命名した雉子神社(品川区東五反田1-2-33)も残っています。のち東海道が幹線として整備されると、中原街道も通行量が激減しましたが、大名行列を避けられるため、沿道の農産物を最速で江戸に供給する物資輸送の道として利用されたといいます。

ところで五反田駅のお江戸シリーズスタンプは、2003年設置のもの印影が変わっています。旧スタンプは「愛の母子像と池田山公園」(現在はなし)。昭和49年(1974)に東京五反田ライオンズクラブによって建立された愛の母子像は、かつては東口にあり、待ち合わせ場所として知られていましたが、駅改修工事の際に撤去されました。現在は跡地に『ユニクロ』が建っていますが、愛の母子像の移設先は不明のままです。あの子どもが今にもずり落ちそうでおかしかった像は、どこへ行ってしまったのでしょうか?
江戸の面影を残すものとしては、東口から徒歩12分のところに池田山公園(東五反田5-4)があります。寛文10年(1670)に備前岡山藩池田家の下屋敷として下賜されたところです。高低差を活かした池泉回遊式の庭園は四季折々の花が美しい区民憩いの場。開園時間(9~17時、ただし7・8月は~18時)を制限しているため、整備も行き届いています。

当公園から徒歩5分のところには、皇后美智子さまの生家跡「ねむの木の庭」(東五反田5-19-5)もあります。昭和8年(1933)に建築された洋館の旧正田邸は、平成13年(2001)に故・正田英三郎氏の相続税の一部として国に物納され、一部では建物保存運動も行われましたが、平成15年(2003)3月には解体されました。その跡地が翌年に区立公園の「ねむの木の庭」として開放され、現在に至っています。
蛇足ですが、五反田駅は本年(2011年)の10月14日に開業100周年を迎えて式典が行われ、開業100年の記念スタンプ(右)も設置されています。こちらは期間限定のスタンプなので、お早目に押印することをおすすめします。
次回の停車駅は目黒駅です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。

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