名古屋港の淵に現役当時の姿で残る産業遺産の元・可動鉄道橋

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[場所] 名古屋市営地下鉄名港線 名古屋港駅 東方約500m
当サイト2016年10月25日アップの「日本で現役唯一の跳開式可動鉄道橋梁」(←その記事はココをクリック)でJR関西本線 四日市駅構内扱いの場所にある末広橋梁を紹介したが、同じ中京地区に1983年頃まで使用されていた跳開式可動鉄道橋梁の「名古屋港跳上橋」が現役時代のままの姿で保存されているので、こちらもせっかくなので紹介しておこう。

名古屋港跳上橋を、その西250mほどの場所にある稲荷橋の北側袂から眺めた光景。この向きからだと、まるで現役のように見えてしまう。

名古屋港跳上橋 はまたの名を「 旧1・2号地間運河可動橋」といい、架橋されている場所はいまでは切込み式埠頭に見えてしまうが、かつては堀川と中川を連絡していた運河で、その堀川口側に1927年(昭和2年)に架けられた可動鉄道橋になる。設計は上記の「末広橋梁」と同じ山本卯太郎氏による。
橋梁全体の構造は、北北東側から上路プレートガーダー×1+下路プレートガーダー×2+可動桁×1の4径間。スパン割は上の順に13.45m+13.50m+13.50m+19.60mの、可動部桁長は23.8mで、全長は約63.4m。開閉方式は片開きの上部カウンターウエイト方式になる。
位置的にはJR名古屋港線 名古屋港駅の南東約1.1kmにあるが、鉄道利用で訪ねるなら 名古屋市営地下鉄名港線 名古屋港駅 が最寄りで東方に500mほど歩くと辿り着くことができる。

名古屋港跳上橋の北北東側の袂、上写真でいうところの左護岸上からの南南西方向の眺め。可動桁の跳上角度は78゜だが、そそり立つように見える。
上写真の位置からの反対(北東)方向の眺め。本来は防潮扉があった場所だが、いまはコンクリートの護岸になり、その先に延びていたであろう線路は跡形もなく撤去されている。

この可動橋梁の写真を見て、前後に線路はつながっておらず、どうしてここに鉄道橋梁があるのか、1983年以前を知らない方にとっては不思議に思われたのではないだろうか。
実際、橋梁の位置は現役の頃と変わっていない。ならば、かつてここまで線路がどのルートでつながっていたのか気になるところだろう。地図が見られる環境ならば見ていただきたいが、知るには、まず注目してほしいのがJR中央西線 金山-名古屋 間にある山王信号場になる。中央西線に名古屋駅から乗車すると1.8kmほどの地点から右(南)側に分岐していく線路を目撃したことがある方は多いと思うが、この場所が山王信号場で、そしてこの線の行き着くところ、約6.2km先にあるのが前述のJR貨物 名古屋港駅で、かつてはこの先からさらに南側に線路が延びており少し先で東にカーブし、次いで北へ向かって曲がり北上するといったコースで、名古屋港跳上橋を通り、その北方約1kmの場所にあった堀川口駅まで続く線路が存在した。開通は1928年で 名古屋港跳上橋 竣工の翌年。その堀川口駅は1980年10月1日に廃止なるが、その後も線路は名古屋港駅の一部として残り、1983年頃までは使用されていたと伝わっている。

上写真の地点とは同じ(北)袂側で線路の反対(東)側から西南西方向を眺めたところ。運河対岸は製粉工場で、内部の状況は未確認。
運河北側岸から眺めた可動桁の回転軸部分。桁の向こうのブルーのパーツがカウンターウェイトで、右の白い建物は操作用の小屋になる。

いまのスタイルで保存されたのは1987年で、1999年2月17日に国の登録有形文化財に登録された。そして2009年には経済産業省が認定する近代化産業遺産に、2016年には選奨土木遺産に認定されている。
なお、可動鉄道橋に興味がある方は当サイト2017年9月8日アップでJR和田岬線 兵庫-和田岬 間の兵庫運河に架かる『和田旋回橋』(←その記事はココをクリック)を紹介しているので、先の「末広橋梁」と合わせて読んでいただけるとありがたい。

ここに掲載の内容はアップ日時点の情報になります。その後に状況の変化や、変更があった場合にはご容赦ください。

[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。