タグ別アーカイブ: 薩摩屋敷跡

スタンプ物語5・田町駅

江戸を戦火から救った

二大巨頭の歴史的会談

田町といえば「勝海舟・西郷隆盛会談の碑」。昭和55年(1980)に設置された「わたしの旅スタンプ」の絵柄にもなりました。このときは勝海舟と西郷隆盛の顔が描かれていたのですが、これまた全然似てませんでした(笑)。碑のほうでは西郷隆盛が「南洲(なんしゅう)」となっていますが、これは西郷の称号です。碑は芝浦口(西口)から徒歩2分の第一田町ビル(港区芝5-33-8)の脇に建っています。この付近は江戸時代、薩摩藩邸があった場所でした。
慶応4年(1868)の正月3日、大坂から京都へ入ろうとした旧幕府軍と薩長軍が衝突。これが2年にわたって繰り広げらる戊辰戦争の始まりです。しかし、鳥羽・伏見の戦いでは、銃火器に勝る薩長の前に旧幕軍はあっけなく敗退。大坂城に戻った前将軍・徳川慶喜は6日夜に大坂城から脱出し、天保山沖に停泊中の開陽丸に乗船。12日には江戸へ帰還してしまいます。どうやら朝敵になるのを恐れて戦いを放棄してしまったのです。これに勢いづいた薩長軍は官軍として東海道・東山道・北陸道に別れて江戸に進軍。慶喜は上野の寛永寺に謹慎して恭順の意を示しましたが、あくまで武力討伐にこだわる官軍は江戸城総攻撃を3月15日と決めていました。旧幕府の陸軍総裁として全権を任された勝海舟は、幕臣山岡鉄舟を西郷の使者として派遣し、3月13・14日の両日、高輪の薩摩藩邸で西郷と会談、江戸無血開城が決定しました。江戸城は4月11日に明け渡され、官軍と交戦派の彰義隊が衝突した上野戦争を除けば、江戸の街は戦火から救われたのです。
ところで勝と西郷の会談ですが、このときが始めてではありません。元治元年(1864)9月11日の第一次長州征伐でも大坂で会談をしています。このとき西郷は幕府軍参謀の地位におり、長州藩にも厳しい処置をとる態度でいました。西郷は先の禁門の変では、長州藩との戦闘で負傷もしています。しかし、勝は幕臣にもかかわらず、幕府の命運を語り、諸外国に対峙するには開国し、一致団結して富国強兵するしかないと解いています。この会談によって西郷は目からウロコが落ち、のちに薩長同盟から討幕へと方針転換していきます。つまり勝と西郷の会談は、二度も歴史を変える重大な局面だったということです。

なお、この会談の碑からさほど遠くない場所に、薩摩屋敷跡の碑(港区芝5-7-15)も立っています。会談が行われた前年の慶応3年(1867)12月25日、庄内藩を中心に焼き討ちされた三田の薩摩藩邸で、これが鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争を誘引しました。この2つの石碑の揮毫(きごう)は、西郷隆盛の孫で、法務大臣も務めた吉之助(1906~97)によるものです。
次回の停車駅は品川駅です。


より大きな地図で 田町駅 を表示


※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。