「名所・旧跡」タグアーカイブ

スタンプ物語10・恵比寿駅

ヱビスビールの商標が地名に

現在の庚申講はビールで乾杯!

スタンプの恵比寿様の像は西口にあります。縁起のよい駅名の恵比寿は、明治期に日本麦酒醸造会社(現・サッポロビール)が製造していた「ヱビスビール」の商標からつけられた地名です。明治34年(1901)、ビール工場から出荷専用の貨物駅として開設し、旅客営業をはじめたのは明治39年(1906)。当初は下渋谷といいましたが、工場周辺を「ゑびす」と呼ぶようになり、昭和3年(1928)には駅周辺の地名も「恵比寿」に改められました。また駅西口から徒歩3分のところにある恵比寿神社(恵比寿西1‐11)は、旧名を天津神社といいましたが、昭和34年(1959)の区画整理で遷座した際に、兵庫県西宮市の西宮神社から事代主命(恵比寿神)を勧請して合祀し、現在の神社名に改められています。

工場は昭和60年(1985)に都市化の開発に伴い、千葉県船橋市に移転。その跡地の再開発が平成3年(1991)からはじまり、1994年にはサッポロビール(現・サッポロホールディングス)によって高さ40階(167m)の恵比寿ガーデンプレイスタワーが竣工されました。スタンプに描かれたガーデンプレイスまでは駅から動く歩道「スカイウォーク」で直結。サッポロビールの本社もここに置かれ、新鮮なビールが試飲(有料)できるヱビスビール記念館も併設されているほか、38・39階には展望レストラン街が形成され、デートスポットとしても有名です。詳しくはこちらをご覧ください。

今回のスタンプはお江戸ではないのですが、江戸の史跡としては、西口から徒歩5分のところに寛文4年(1664)から明治38年(1905)まで7基の庚申塔(写真左/恵比寿西2‐11‐7)が建っています。
ここから東へ徒歩5分のところには渋谷川に架かる庚申橋があり、橋のたもとには寛政11年(1799)に建立された庚申橋供養碑(写真右/渋谷区東3‐17‐17)もあります。碑の四面には講中の個人名が刻まれており、地域も渋谷・麹町・赤坂・芝・麻布・四谷・大久保・池袋・市ケ谷・目黒・中野・世田谷・荻窪など広範囲にわたってみられ、現在は小さな道ですが、江戸期には重要な交通路だったことがうかがえます。
庚申信仰というのは60日ごとにある庚申の夜にうっかり寝てしまうとそのまま死んでしまうことがあると伝えられ、庚申の日は一晩中飲んだり食べたりしながら語り明かして眠らないように過ごし、その仲間を「庚申講」といいました。庚申講は平安期の清少納言『枕草子』にも登場するので、日本では古くから伝わっていたようですが、江戸期にはこれが民間に広まり盛んに行われていたようです。
現在では廃れてしまいましたが、地方では親睦会に置き換えて庚申講を行っているところもあるようです。しかし、「朝まで宴会」の伝統はしっかり受け継がれていますね。暮れになると盛んになり、「ヱビスビール」も欠かせませんが、くれぐれも飲みすぎは禁物です。
次回の停車駅は渋谷駅です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。
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スタンプ物語9・目黒駅

目黒区にはない目黒駅

茶屋坂のついでに目黒不動参詣

今回の目黒駅のスタンプは「爺々が茶屋」。歌川広重の「名所江戸百選」に描かれたものを再現しています。
目黒は江戸時代、将軍の鷹狩り場として知られ、また幕府の庇護を受けた目黒不動がありました。そして将軍が鷹狩や参詣の帰りに立ち寄る茶屋があり、3代将軍家光は百姓の彦次郎が営む茶屋を愛し、彦次郎に「爺、爺」と呼びかけたことから「爺々が茶屋(爺が茶屋ともいう)」という名がついたそうです。この茶屋に欠かせないのが落語噺に出てくる「目黒のサンマ」です。このあらすじを簡単に紹介すると、
「鷹狩で目黒に出かけた殿様が、腹が減ったところにサンマを焼く匂いが漂ってきたので、サンマを取り寄せてご飯のおかずにした。以来、殿様はサンマ中毒になり、家来にサンマを求めると、家臣たちは殿様の健康を気遣ってサンマを脂抜きのパサパサで出した。日本橋魚河岸で求めたサンマではあったが、これではうまいわけがない。殿様が『やっぱサンマは目黒(海から4kmほど離れた場所)に限る』というのがオチ」

この殿様のモデルが家光で、サンマを出したのが彦次郎といわれていますが、殿様は松江藩主松平出羽守という説もあります。「爺々が茶屋」のあった場所は、目黒駅から15分ほど歩いた現在の目黒区三田2丁目の茶屋坂下の一角にある「茶屋坂街かど公園」あたり。途中には「茶屋坂と爺々が茶屋」の案内板が立っています。
96年から始まった毎年9月第1または第2日曜に行われる「目黒さんま祭り」は、目黒駅から徒歩3分の誕生八幡神社手前が会場。無料の焼きたてサンマが振る舞われ、寄席などのイベントもありますが、混雑必至で行列は1時間待ちになるそうです。

現在も参詣客で賑わう目黒不動(目黒区下目黒3-20-26)は駅から徒歩13分。最寄駅では東急の不動前駅がありますが、ここからでも徒歩8分です。目黒不動は正式には泰叡山瀧泉寺といい、大同8年(808)の創建。元和元年(1615)の火災で本堂などを焼失しましたが、寛永元年(1624)に家光によって再建されました。三代将軍・家光が天海の建言で、江戸内に五つの不動(江戸五色不動)を選んだうちのひとつです。この五不動は五行説の五色にちなんだものといわれ、このため山手線の駅名にもなっている目黒・目白はじめ、目赤・目青・目黄と五色の不動が都内にあります。他にも江戸三十三箇所や関東三十六不動の札所でも知られ、境内には独鈷の滝や甘藷先生で知られる青木昆陽(1698~1769)の墓(写真右)なども点在しています。また、目黒駅から目黒通りを西へ徒歩10分のところには、隠れた人気スポットの目黒寄生虫館)(下目黒4-1-1)もあります。公式サイトはこちらです。
最後に余談ですが目黒駅は目黒区になく、所在地は品川区上大崎にあります。区名と駅名所在地が異なるケースは、山手線では他にも品川駅(港区高輪)にも見られます。代々木駅も旧千駄ヶ谷村だったのですが、こちらは区画整理で代々木1丁目となりました。
次回の停車駅は恵比寿駅です。


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スタンプ物語4・浜松町駅

新旧の建造物が対照的

季節を衣装で示す小便小僧もお忘れなく

東京タワーの最寄駅が浜松町です。とはいえ北口から徒歩15分、約1kmありますので、東京メトロ日比谷線の神谷町駅か都営三田線御成門駅のほうが最寄といえますが……。
東京タワーといえば映画『ALWAYS三丁目の夕日』でもおなじみですが、昭和33年(1958)に竣工された高さ333mの集約電波塔です。昔は田舎の修学旅行で東京へ行くと、必ず「はとバス」のツアーで立ち寄りました。ペナントや置物のカレンダーなど、ひと昔前のおみやげは懐かしいものです。タワーには高さ150mと大展望台と高さ250mの特別展望台がありますが、だいたい修学旅行では大展望台までしか登らせてくれません。特別展望台はさらに料金がかかってしまうからです。他にも蝋人形館やギネスワールドレコードミュージアム、トリックアートギャラリー、東京タワー水族館など楽しげな施設が目白押しです。ところでこの東京タワー、平成23年(2011)7月24日のアナログ放送終了で、その使命をまっとうしました。その後、放送局は次々と墨田区押上の東京スカイツリー(高さ634mは世界一)へ移転していますが、NHKと民放5社は東京タワーを予備電波塔として使用していく方針で、その後も文化遺産として残されてゆくことでしょう。

徳川家霊廟の秀忠と江(崇源院)夫妻の合祀墓ですが、元々は別々でした。秀忠の霊廟が戦災で焼失したため、江の石造宝塔を共用することになったわけです。

東京タワーの東側にあり、スタンプにも新旧対照的に描かれている建物が芝増上寺の大殿です。昭和49年(1974)の再建ですが、その荘厳さを失っていません。開山は明応4年(1393)で、慶長3年(1598)に現地に移転し、徳川家康および歴代将軍の手厚い保護を受けました。徳川家の霊廟があることでも知られ、歴代将軍のうち2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂と6人が眠っています。墓所は通常非公開で、 4月上旬の御忌大会などの特別な日しか公開されません。ただし、平成23年(2011)は大河ドラマ『江~姫たちの戦国』の放映にちなみ、通年公開(年末は休み)され、平成24年(2012)1月末日まで特別拝観が実施されています。拝観料は500円(記念品付)で10~16時。ただし例年の特別公開日は無料(記念品なし)となります。この機会に秀忠&江夫妻が合祀された宝塔をぜひお参りされてはどうでしょうか。詳しくは当寺のWEBをご覧ください。
この増上寺、江戸時代には日光東照宮に劣らぬほどの絢爛さを誇ったといいますが、政教分離で境内の大半が芝公園となり、貴重な霊廟や五重塔なども戦災で失われてしまったそうです。それでもお江戸の華やかさを体感するにはおすすめのスポットといえましょう。
また、駅東側には旧芝離宮恩賜庭園(写真右)もあります。延宝6年(1678)に老中で小田原城主の大久保忠朝が当地を拝領し、貞享3年(1686)に楽寿園を造園。その後、堀田家、清水家、紀州徳川家の所有を経て、明治4年(1871)には有栖川宮邸となり、同9年に芝離宮となりました。浜離宮同様、迎賓館として洋館が新築されましたが、大正12年(1923)の関東大震災で洋館を焼失し、翌年に昭和天皇の御成婚を記念して東京市(現・東京都)に下賜され、一般公開に至っています。
ここも浜離宮同様、回遊式汐入り林泉庭園ですが、周囲の埋め立てで海の眺望は失われ、鉄道の増設用地提供などで庭園面積は小さくなりましたが、往時の大名庭園の面影を色濃く残しています。詳しくはこちらをご覧ください。

最後に浜松町といえば、かつてのスタンプ(現在はありません)に描かれていた小便小僧の存在を忘れてはいけません。3・4番線ホームの田町寄りにあります。この像は昭和27年(1952)に、地方からの旅人を癒す目的で当時の新橋駅歯科医小林光氏によって寄贈されました。その後、昭和61年(1986)に防火用PRの衣装を着せたことから、以後、地元のボランティアによって、月ごとに着せ替えがあり、その移り変わりをギャラリーで見ることができます。駅のマスコットとして愛され続ける小便小僧も還暦を迎えようとしていますが、放水の勢いは衰えることがありません。
次回の停車駅は田町駅です。


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スタンプ物語3・新橋駅

汽笛一声・新橋から

ビル街のオアシス浜離宮を散歩

開業当初の新橋(汐留)駅(『回顧八十年史』)。右の復元された旧新橋停車場と見比べてみましょう。

鉄道唱歌でおなじみ「汽笛一声」の新橋駅です。
明治5年(1872)10月14日、新橋~横浜(現・桜木町)間に日本初の鉄道が正式開業し、以来10月14日は鉄道記念日となっています。まあ、ちょっと鉄道に詳しい方なら現在の新橋駅は大正3年(1914)に烏森駅から改称された駅で、旧新橋駅は国鉄の貨物駅となった汐留駅ということはご存知でしょう。その汐留駅も昭和61年(1986)に廃止され、跡地は国の史跡に指定。平成15年(2003)には旧新橋駅停車場として、開業当時の駅舎が再現されています。鉄道歴史展示室として無料で入館(月曜休)できますので、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか? 新橋駅汐留口から歩いて5分です。詳しくはこちらをご覧ください。

本題のスタンプは浜離宮恩賜庭園。新橋駅汐留口から徒歩12分のところにあります。これぞ徳川将軍家ゆかりの庭園。承応3年(1654)、甲府藩主松平綱重(6代将軍家宣の父)が当地に別邸を建てたのが始まりで、将軍家宣の代に大幅な改修が行われたといいます。江戸時代は浜御殿と呼ばれていましたが、明治以降は宮内庁の管轄となり、浜離宮と改められ、外国人を接待する迎賓館としても用いられました。戦後、都に下賜され、昭和21年(1946)に都立庭園として一般に開放されるようになりました。
四季折々の花も見事ですが、当園の魅力は東京湾の海水を引き入れた「潮入りの池」でしょう。池にボラやセイゴ、ハゼなどが泳いでいるってなんか竜宮城の趣がありませんか(乙姫様はいませんが)。それに四季の花々や野鳥の宝庫としても知られ、水上バスの発着地にもなっています。浅草・両国およびお台場や葛西臨海公園などへはちょっとしたクルーズもおもしろいかもしれません。詳細はこちらをご覧ください。

現在は破棄されてしまったようですが、これ以前のスタンプでは、鉄道唱歌の碑とSLが描かれていました。鉄道唱歌は明治33年(1900)に大和田建樹の作詞で、駅前には鉄道唱歌の歌碑とSLのC58の動輪があります。さらに日比谷口のSL広場には、C11が静態保存されており、12時、15時、18時の1日3回汽笛が数秒間鳴るそうです。汽笛に耳をすませば、やはり新橋は「鉄道発祥の地」ということが実感できるのではないでしょうか。
次回の停車駅は浜松町です。


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スタンプ物語2・有楽町駅

現在は建替で休館中の歌舞伎座

第四期の原型を活かして完成を待つ

本日は有楽町です。この地名の由来は織田信長の弟長益(1547~1622)が江戸開府の際に、徳川家康からこの付近に土地を拝領したことから、号名の「有楽斎(うらくさい)」をとって明治時代に有楽町と付けられたそうです。ところでこの織田有楽斎、信長が横死した本能寺の変時(1582年)に嫡男信忠とともに二条城に立て籠もったのですが、自分だけ自害せずに城を脱出。さらにその後の大坂冬の陣でも豊臣方として大坂城にいましたが、夏の陣前に城から出る(徳川のスパイ説・和平派説などあり)など、その運のよさと戦国の世におけるしぶとさは特筆できます。一等地の地名に残るほどですから。

ちなみに有楽町中央口駅前の有楽町イトシアには、近年の駅前開発で発掘された南町奉行所跡の石組(写真右)が保存されています。南町奉行所といえば『遠山の金さん』でおなじみの遠山景元が務めたところです。何気なく利用している駅にも歴史がありますね。

ずいぶん脱線してしまいましたが、スタンプの歌舞伎座は銀座口から徒歩6~7分のところです。歌舞伎専用の劇場として明治22年(1889)に開設。その後、漏電による焼失、関東大震災などに見舞われながら大正14年(1925)に新築したのですが、こちらも昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失。現在の建物は戦後昭和25年(1950)に竣工したもので、先に焼失した第三期の建物のデザインを生かしています。しかし、この建物も老朽化・バリアフリーへの対応を理由に平成22年(2010)4月の公演をもって休館。現在は建替工事中で、高層ビルとつながった第五期の複合施設が完成するのは2013年春です。プレスで発表された完成予想図からも分かるように、以前の伝統的な和風桃山様式を活かした建物になるようで、完成が待ち遠しいですね。

現在はすでにありませんが、これ以前のスタンプでは、山手線とマリオンと大黒様が描かれていました。高額当選で有名な宝くじ売り場に祀られている大黒様(有楽町ロッタリープラザ)で、中央改札口内にも別に一体が祀られています。構内の有楽大黒は昭和初期に謹彫。当時駅前にあった寿司屋の主人が秘蔵して、毎晩拝礼していましたが、太平洋戦争末期に駅長に寄贈されたもので、昭和56年(1981)春から現地に鎮座されています。利用者の安全や幸福をお守りしている神様で、宝くじ売り場の大黒様と両方お祈りすれば宝くじが当たるかもしれませんね。昭和62年(1987)4月のJR誕生と同時にできたと思われるスタンプも有楽町の特徴をよく表現していました。次回の停車駅は新橋です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。