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スタンプ物語16・高田馬場駅

馬術訓練の馬場に由来

現在も流鏑馬が見られる

高田馬場の地名は、寛永13年(1636)に幕府によって造られた馬術の訓練場に由来しています。家康6男で越後高田藩主・平忠輝の生母高田殿の庭園があったことから「高田」ととったとも、一帯が高台であったことから「高田」と呼ばれていたともいいます。実際に高田馬場があった場所は旧戸塚村で、現在の西早稲田3丁目あたりですから、駅からは1kmほど東にあり、明らかに東京メトロ東西線早稲田駅のほうが最寄となります。スタンプに描かれていますのは、毎年10月に行われる流鏑馬(写真:東京新聞)です。鎌倉期の狩装束に身を包んだ射手が、約200mの直線を馬で疾走しながら3つの的を射抜いていく馬術で、西早稲田2丁目にある穴八幡神社の境内を出発した馬場行列は午後2時頃、戸山公園内の会場で流鏑馬を披露します。外国人にも人気の高い日本伝統行事。穴八幡には流鏑馬像も立っています。

江戸の史跡として近くには戸山公園もあります。園内にある箱根山(写真左)は山手線内で一番高い44.6mの人造の小山で、寛文年間(1661~73)に尾張藩主徳川光友によって回遊庭園が造られました。庭園図(写真右)は園内案内板でも見られますが、起伏のある公園は憩いの場となっています。

また、1999年に新宿指導センターが独自に製作した旧スタンプ(現在はなし)には、早稲田大学と水稲荷神社境内に建つ堀部安兵衛武庸加功績跡の碑が描かれていました。講談でもおなじみの「決闘高田馬場」です。元禄7年(1694)2月11日、御前試合で菅野六朗左衛門に負けた村上庄右衛門が、高田馬場で再決闘を申し込んだが、村上は菅野を騙し討ちにしようと、仲間を集め菅野は苦戦します。そこに菅野と叔父・甥の契りを結んだ中山安兵衛が助けに駆けつけて形勢逆転。不利になった村上らは逃げ出します。この安兵衛の武勇を聞いた赤穂藩士の堀部弥兵衛が娘婿に迎え、赤穂浪士の一人堀部安兵衛となるのです。
次回の停車駅は目白駅です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。

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