「東京支社」タグアーカイブ

スタンプ物語7・大崎駅

超近代的な駅舎に様変わり

お台場・湘南への分岐駅

スタンプの絵柄は、お江戸の史跡からはずれて「新駅舎とお台場」です。スタンプは「駅の顔」といいますので、たしかに近年急速に様変わりした駅舎と線区の様子を描くのもよいPRになるでしょう。大崎駅の新駅舎が完成したのは平成15年(2003)。前年の12月に東京臨海高速鉄道りんかい線天王洲アイル~大崎間の全線開業で、JR埼京線との相互乗り入れを開始しました。

スタンプの副題に「埼京線お台場まで直通」と書かれているのはそのためです。左上に描かれている観覧車が目印の建物はお台場のパレットタウン(写真左)です。りんかい線の最寄駅は東京テレポート駅で徒歩3分。新橋から接続するゆりかもめだと青海駅に直結していますが、大崎からりんかい線(写真右)に乗れば東京テレポートまでたったの10分です。
さらに平成13年(2001)12月に開業した湘南新宿ラインも当初は大崎を通過していましたが、りんかい線開業に伴い全列車が停車するようになりました。元々大崎は山手線の保守整備をする東京総合車両センターが隣接していたため、当駅発着の山手線電車が多いことで知られていました。しかし、りんかい線と山手貨物線を経由する湘南新宿ラインの分岐駅として、いまやターミナルの要所として生まれ変わりました。乗降客数も埼京線・りんかい線開業前と比べると2012年度で倍以上に増えています。

しかし、せっかくですので、お江戸に関する情報も付記しておきましょう。大崎は江戸期には天領や大名下屋敷があったところですが、工場群と駅前再開発で急速に変貌を遂げました。それでもお江戸の史跡は開発の狭間に残されています。新東口から山手通りを右へ進み、目黒川を渡って山手線ガードをくぐり、東海道本線と山手線にはさまれたところに、タクアン漬を考案したと伝わる沢庵和尚や江戸中期の国学者・歌人で知られる賀茂真淵が眠る東海寺大山墓地があります。駅から徒歩7~8分のところです。お茶漬けに欠かせないダイコンのタクアン漬けは元々備蓄食として以前からあったといわれますが、3代将軍家光が沢庵和尚の漬物をたいそうお気に入ったようで、和尚の没後、墓参りをした際に「沢庵漬けとせよ」と命じたことから、「タクアン漬け」といわれるようになったといいます(『守貞漫稿』)。一説には沢庵和尚の墓石(写真左)が漬物石に似ていることに由来しているともいわれますが、たしかに不思議な形状の墓石ですね。
近くには近代硝子工場発祥の地(写真右/品川区北品川4―11-5)で知られる「官営品川硝子製造所跡」の碑も立っています。前身は明治6年(1873)に東海寺境内に創設された興業社で、同9年(1876)に工部省に買収されて官営となりました。のち明治18年(1885)に民間に払い下げとなり、経営不振で同25年(1892)に解散。昭和36年(1961)に建物は撤去されましたが、煉瓦造り工場の一部は愛知県犬山市の明治村に移築・保存されています。
次回の停車駅は五反田駅です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。

スタンプ物語5・田町駅

江戸を戦火から救った

二大巨頭の歴史的会談

田町といえば「勝海舟・西郷隆盛会談の碑」。昭和55年(1980)に設置された「わたしの旅スタンプ」の絵柄にもなりました。このときは勝海舟と西郷隆盛の顔が描かれていたのですが、これまた全然似てませんでした(笑)。碑のほうでは西郷隆盛が「南洲(なんしゅう)」となっていますが、これは西郷の称号です。碑は芝浦口(西口)から徒歩2分の第一田町ビル(港区芝5-33-8)の脇に建っています。この付近は江戸時代、薩摩藩邸があった場所でした。
慶応4年(1868)の正月3日、大坂から京都へ入ろうとした旧幕府軍と薩長軍が衝突。これが2年にわたって繰り広げらる戊辰戦争の始まりです。しかし、鳥羽・伏見の戦いでは、銃火器に勝る薩長の前に旧幕軍はあっけなく敗退。大坂城に戻った前将軍・徳川慶喜は6日夜に大坂城から脱出し、天保山沖に停泊中の開陽丸に乗船。12日には江戸へ帰還してしまいます。どうやら朝敵になるのを恐れて戦いを放棄してしまったのです。これに勢いづいた薩長軍は官軍として東海道・東山道・北陸道に別れて江戸に進軍。慶喜は上野の寛永寺に謹慎して恭順の意を示しましたが、あくまで武力討伐にこだわる官軍は江戸城総攻撃を3月15日と決めていました。旧幕府の陸軍総裁として全権を任された勝海舟は、幕臣山岡鉄舟を西郷の使者として派遣し、3月13・14日の両日、高輪の薩摩藩邸で西郷と会談、江戸無血開城が決定しました。江戸城は4月11日に明け渡され、官軍と交戦派の彰義隊が衝突した上野戦争を除けば、江戸の街は戦火から救われたのです。
ところで勝と西郷の会談ですが、このときが始めてではありません。元治元年(1864)9月11日の第一次長州征伐でも大坂で会談をしています。このとき西郷は幕府軍参謀の地位におり、長州藩にも厳しい処置をとる態度でいました。西郷は先の禁門の変では、長州藩との戦闘で負傷もしています。しかし、勝は幕臣にもかかわらず、幕府の命運を語り、諸外国に対峙するには開国し、一致団結して富国強兵するしかないと解いています。この会談によって西郷は目からウロコが落ち、のちに薩長同盟から討幕へと方針転換していきます。つまり勝と西郷の会談は、二度も歴史を変える重大な局面だったということです。

なお、この会談の碑からさほど遠くない場所に、薩摩屋敷跡の碑(港区芝5-7-15)も立っています。会談が行われた前年の慶応3年(1867)12月25日、庄内藩を中心に焼き討ちされた三田の薩摩藩邸で、これが鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争を誘引しました。この2つの石碑の揮毫(きごう)は、西郷隆盛の孫で、法務大臣も務めた吉之助(1906~97)によるものです。
次回の停車駅は品川駅です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。

スタンプ物語4・浜松町駅

新旧の建造物が対照的

季節を衣装で示す小便小僧もお忘れなく

東京タワーの最寄駅が浜松町です。とはいえ北口から徒歩15分、約1kmありますので、東京メトロ日比谷線の神谷町駅か都営三田線御成門駅のほうが最寄といえますが……。
東京タワーといえば映画『ALWAYS三丁目の夕日』でもおなじみですが、昭和33年(1958)に竣工された高さ333mの集約電波塔です。昔は田舎の修学旅行で東京へ行くと、必ず「はとバス」のツアーで立ち寄りました。ペナントや置物のカレンダーなど、ひと昔前のおみやげは懐かしいものです。タワーには高さ150mと大展望台と高さ250mの特別展望台がありますが、だいたい修学旅行では大展望台までしか登らせてくれません。特別展望台はさらに料金がかかってしまうからです。他にも蝋人形館やギネスワールドレコードミュージアム、トリックアートギャラリー、東京タワー水族館など楽しげな施設が目白押しです。ところでこの東京タワー、平成23年(2011)7月24日のアナログ放送終了で、その使命をまっとうしました。その後、放送局は次々と墨田区押上の東京スカイツリー(高さ634mは世界一)へ移転していますが、NHKと民放5社は東京タワーを予備電波塔として使用していく方針で、その後も文化遺産として残されてゆくことでしょう。

徳川家霊廟の秀忠と江(崇源院)夫妻の合祀墓ですが、元々は別々でした。秀忠の霊廟が戦災で焼失したため、江の石造宝塔を共用することになったわけです。

東京タワーの東側にあり、スタンプにも新旧対照的に描かれている建物が芝増上寺の大殿です。昭和49年(1974)の再建ですが、その荘厳さを失っていません。開山は明応4年(1393)で、慶長3年(1598)に現地に移転し、徳川家康および歴代将軍の手厚い保護を受けました。徳川家の霊廟があることでも知られ、歴代将軍のうち2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂と6人が眠っています。墓所は通常非公開で、 4月上旬の御忌大会などの特別な日しか公開されません。ただし、平成23年(2011)は大河ドラマ『江~姫たちの戦国』の放映にちなみ、通年公開(年末は休み)され、平成24年(2012)1月末日まで特別拝観が実施されています。拝観料は500円(記念品付)で10~16時。ただし例年の特別公開日は無料(記念品なし)となります。この機会に秀忠&江夫妻が合祀された宝塔をぜひお参りされてはどうでしょうか。詳しくは当寺のWEBをご覧ください。
この増上寺、江戸時代には日光東照宮に劣らぬほどの絢爛さを誇ったといいますが、政教分離で境内の大半が芝公園となり、貴重な霊廟や五重塔なども戦災で失われてしまったそうです。それでもお江戸の華やかさを体感するにはおすすめのスポットといえましょう。
また、駅東側には旧芝離宮恩賜庭園(写真右)もあります。延宝6年(1678)に老中で小田原城主の大久保忠朝が当地を拝領し、貞享3年(1686)に楽寿園を造園。その後、堀田家、清水家、紀州徳川家の所有を経て、明治4年(1871)には有栖川宮邸となり、同9年に芝離宮となりました。浜離宮同様、迎賓館として洋館が新築されましたが、大正12年(1923)の関東大震災で洋館を焼失し、翌年に昭和天皇の御成婚を記念して東京市(現・東京都)に下賜され、一般公開に至っています。
ここも浜離宮同様、回遊式汐入り林泉庭園ですが、周囲の埋め立てで海の眺望は失われ、鉄道の増設用地提供などで庭園面積は小さくなりましたが、往時の大名庭園の面影を色濃く残しています。詳しくはこちらをご覧ください。

最後に浜松町といえば、かつてのスタンプ(現在はありません)に描かれていた小便小僧の存在を忘れてはいけません。3・4番線ホームの田町寄りにあります。この像は昭和27年(1952)に、地方からの旅人を癒す目的で当時の新橋駅歯科医小林光氏によって寄贈されました。その後、昭和61年(1986)に防火用PRの衣装を着せたことから、以後、地元のボランティアによって、月ごとに着せ替えがあり、その移り変わりをギャラリーで見ることができます。駅のマスコットとして愛され続ける小便小僧も還暦を迎えようとしていますが、放水の勢いは衰えることがありません。
次回の停車駅は田町駅です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。

スタンプ物語3・新橋駅

汽笛一声・新橋から

ビル街のオアシス浜離宮を散歩

開業当初の新橋(汐留)駅(『回顧八十年史』)。右の復元された旧新橋停車場と見比べてみましょう。

鉄道唱歌でおなじみ「汽笛一声」の新橋駅です。
明治5年(1872)10月14日、新橋~横浜(現・桜木町)間に日本初の鉄道が正式開業し、以来10月14日は鉄道記念日となっています。まあ、ちょっと鉄道に詳しい方なら現在の新橋駅は大正3年(1914)に烏森駅から改称された駅で、旧新橋駅は国鉄の貨物駅となった汐留駅ということはご存知でしょう。その汐留駅も昭和61年(1986)に廃止され、跡地は国の史跡に指定。平成15年(2003)には旧新橋駅停車場として、開業当時の駅舎が再現されています。鉄道歴史展示室として無料で入館(月曜休)できますので、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか? 新橋駅汐留口から歩いて5分です。詳しくはこちらをご覧ください。

本題のスタンプは浜離宮恩賜庭園。新橋駅汐留口から徒歩12分のところにあります。これぞ徳川将軍家ゆかりの庭園。承応3年(1654)、甲府藩主松平綱重(6代将軍家宣の父)が当地に別邸を建てたのが始まりで、将軍家宣の代に大幅な改修が行われたといいます。江戸時代は浜御殿と呼ばれていましたが、明治以降は宮内庁の管轄となり、浜離宮と改められ、外国人を接待する迎賓館としても用いられました。戦後、都に下賜され、昭和21年(1946)に都立庭園として一般に開放されるようになりました。
四季折々の花も見事ですが、当園の魅力は東京湾の海水を引き入れた「潮入りの池」でしょう。池にボラやセイゴ、ハゼなどが泳いでいるってなんか竜宮城の趣がありませんか(乙姫様はいませんが)。それに四季の花々や野鳥の宝庫としても知られ、水上バスの発着地にもなっています。浅草・両国およびお台場や葛西臨海公園などへはちょっとしたクルーズもおもしろいかもしれません。詳細はこちらをご覧ください。

現在は破棄されてしまったようですが、これ以前のスタンプでは、鉄道唱歌の碑とSLが描かれていました。鉄道唱歌は明治33年(1900)に大和田建樹の作詞で、駅前には鉄道唱歌の歌碑とSLのC58の動輪があります。さらに日比谷口のSL広場には、C11が静態保存されており、12時、15時、18時の1日3回汽笛が数秒間鳴るそうです。汽笛に耳をすませば、やはり新橋は「鉄道発祥の地」ということが実感できるのではないでしょうか。
次回の停車駅は浜松町です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。

スタンプ物語2・有楽町駅

現在は建替で休館中の歌舞伎座

第四期の原型を活かして完成を待つ

本日は有楽町です。この地名の由来は織田信長の弟長益(1547~1622)が江戸開府の際に、徳川家康からこの付近に土地を拝領したことから、号名の「有楽斎(うらくさい)」をとって明治時代に有楽町と付けられたそうです。ところでこの織田有楽斎、信長が横死した本能寺の変時(1582年)に嫡男信忠とともに二条城に立て籠もったのですが、自分だけ自害せずに城を脱出。さらにその後の大坂冬の陣でも豊臣方として大坂城にいましたが、夏の陣前に城から出る(徳川のスパイ説・和平派説などあり)など、その運のよさと戦国の世におけるしぶとさは特筆できます。一等地の地名に残るほどですから。

ちなみに有楽町中央口駅前の有楽町イトシアには、近年の駅前開発で発掘された南町奉行所跡の石組(写真右)が保存されています。南町奉行所といえば『遠山の金さん』でおなじみの遠山景元が務めたところです。何気なく利用している駅にも歴史がありますね。

ずいぶん脱線してしまいましたが、スタンプの歌舞伎座は銀座口から徒歩6~7分のところです。歌舞伎専用の劇場として明治22年(1889)に開設。その後、漏電による焼失、関東大震災などに見舞われながら大正14年(1925)に新築したのですが、こちらも昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失。現在の建物は戦後昭和25年(1950)に竣工したもので、先に焼失した第三期の建物のデザインを生かしています。しかし、この建物も老朽化・バリアフリーへの対応を理由に平成22年(2010)4月の公演をもって休館。現在は建替工事中で、高層ビルとつながった第五期の複合施設が完成するのは2013年春です。プレスで発表された完成予想図からも分かるように、以前の伝統的な和風桃山様式を活かした建物になるようで、完成が待ち遠しいですね。

現在はすでにありませんが、これ以前のスタンプでは、山手線とマリオンと大黒様が描かれていました。高額当選で有名な宝くじ売り場に祀られている大黒様(有楽町ロッタリープラザ)で、中央改札口内にも別に一体が祀られています。構内の有楽大黒は昭和初期に謹彫。当時駅前にあった寿司屋の主人が秘蔵して、毎晩拝礼していましたが、太平洋戦争末期に駅長に寄贈されたもので、昭和56年(1981)春から現地に鎮座されています。利用者の安全や幸福をお守りしている神様で、宝くじ売り場の大黒様と両方お祈りすれば宝くじが当たるかもしれませんね。昭和62年(1987)4月のJR誕生と同時にできたと思われるスタンプも有楽町の特徴をよく表現していました。次回の停車駅は新橋です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。