トンネル?にしては山がない謎の建造物!?それも日本一短い?

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[場所]大井川鐵道 大井川本線 地名駅

大井川鐵道 大井川本線 地名-塩郷 間にトンネルのような形の謎の建造物がある。 列車に乗っていると判りづらいが、傍らから眺めるとトンネルとしての役割は担っていないのが見てとれ、またグーグルマップなどの上からの航空写真を見ると平面図的には平行四辺形に近い不思議な形をしているのが確認でき、その辺も鑑みるとこれが何のために造られたストラクチャーなのか、気になってしまう。

謎の「トンネル?」 をくぐる16000系使用の上り普通電車。左が金谷方で、右が千頭方になる。なお上写真はC10 8 SL牽引の上り列車。
謎の「トンネル?」 をくぐる21000系使用の上り普通電車で、電車の後ろ端が上と同じ位置の写真を選んでみた。列車の編成長の違いがよく判る。
位置は地名駅北方すぐの構内分岐器ほどの所のなので、電車利用でもそれなりに見学に訪れやすい。とはいえ駅舎とは反対側にあるので、訪れるには遠回りになってしまうのがやや辛いところではあるが。

謎の「トンネル? 」をくぐり、地名駅に進入する16000系使用の上り普通電車。プラットホーム北端からはこんな感じに見える。
地名駅駅舎付近の構内踏切から北(千頭)方向に眺めた謎の「トンネル?」。プラットホームからすぐ近くなのが判る。木製の架線柱がアクセントになり、レトロな風情をかもしだしている駅ともいえようか。
ところで、この構造物だが「日本一短いトンネル?」との噂がある。「?」が付いているのがミソだが、その辺も含めて検分していこう。
ではまず、トンネルのような不思議な建造物を四方から眺めてみよう。

謎の「トンネル? 」の南東側の眺め。中が丁度分岐器の位置になっている。
北北東側の眺め。こちら側から眺めるとスリムな出立ちで シェッド であることが実感できる。
北北西側の眺め。完成時の大井川鐵道は非電化だったが、天井の高さは、おそらくだが初めから架線を張ることを前提にしていたように見受けられる。
南南西側の眺め。饋電線などが外側を通っているのがトンネルではない証し。
上の4枚の写真を見てもらえば、この建造物がトンネルではなく、上空あたりから線路上に物が落下するのを防護する シェッド であることが解るだろう。
そして、実際に索道がこれの上の中空に通っていた。この索道はまず、現・藤枝市滝沢-現・川根本町沢間 間を結ぶ目的で1925年(大正14年)に操業した川根電力索道株式会社により、1926年に地名まで開通した。それが1930年(昭和5年)には沢間まで延長され、以後1938年(昭和13年)に閉鎖されるまで運行されていた。大井川鉄道は 家山-地名-塩郷 間の線路が開通したのは1930年(昭和5年)で、これに合わせ、索道よりの列車への落下物から危険を回避するために、この場所に同シェッドが造られたとのことだ。この辺りの経緯は、シェッドの北西側脇に立っていた説明板に記されていたので、その解説文の日本語部分から一部を流用して以下に掲載しよう。

「日本一短いトンネル(長さ11m 幅5m) 
川根索道の下を通る大井川鉄道の列車の上に、ロープウェーに吊るされた荷物が落下し、列車や乗客に被害が及ぶ危険を回避するために建設されたものである。文字通り、列車や乗客を危険から守るためのトンネル=保安であった。
川根索道
大正14年(1925年)8月、滝沢(藤枝)~伊久美中平(島田)まで操業開始
大正15年(1926年)滝沢~地名(中川根町)間開通
昭和5年(1930年)沢間(本川根町)まで延長
昭和13年(1938年)閉鎖 大井川鉄道の全線開通により、その使命を終える。
上り荷(地名方面行き)
 米類・衣料品・雑貨・セメント・食料品等
下り荷(滝沢方面行き)
 茶・しいたけ・木材等」

なお、現・大井川鐵道 井川線 沢間駅からは1931年(昭和6年)に大間(現・寸又峡温泉付近)まで開通した寸又川専用軌道が出ており、大井川鉄道 千頭駅と沢間駅を結ぶ大井川専用軌道が開業した1933年(年代には諸説あり)までは、索道の先に軌道があったことになる。

地名駅プラットホームに立っている案内板。タイトルの 「?」が指しているのは「トンネル」で、「日本一短い」に懸けているのではないと思われる。ただしこれはあくまでも鉄道トンネルとしての称号なのは言わずもがなだろう。ちなみに、左の解説文に出てくる「藤枝」は、藤枝市街地やその近辺のことではなく、JR藤枝駅から北北西8kmほどの場所に位置する 滝沢中山 地区を指す。
さて、この シェッド の長さなのだが、上記の解説文にもある通り、表向きは11mになっている。もし仮にこれがトンネルだとしても、JR吾妻線にあったかつての樽沢トンネルが7.2m、現在ではJR呉線の川尻トンネルが8.7mの日本一短いトンネルで、地名のシェッドが短かさで日本一ではない。しかし上写真の地名駅プラットホームに立つ説明板には「日本一短いトンネル?」の記述がある。この記録の出所は何なのかというと、これが7mという説も一部にあるからに他ならない。ではこの7mの数値はドコから出てきたのか気になってこよう。
ここからは筆者の憶測になるので知らなくても良いどうでもいいネタだが、シェッドを上から見た形が平行四辺形に近いことは上でも述べたが、ならば線路と平行な東西の内壁側を図形の対辺の上底・下底として、南北の出入り口を斜辺として、底辺から直角に伸ばした線がその角を結んだ所でできた直角三角形部分を取り払った長方形の長辺の長さが7mになるのだと考えた人がいたのではないだろうか。グーグルマップの航空写真でそんな測り方をしてみると、実際その位の数値になったから面白い。

地名駅の金谷方・南側にもシェッドがあった?

前項の 川根索道 の解説文の中に出てくる索道の駅の場所で「伊久美中平」は地名駅から南東に約7km、「滝沢」はそこから南東に約6kmの地点にある。シェッドは駅の北方にありその出入り口の斜辺の先は北東方を向いている。そうすると、ここで紹介しているシェッドは千頭の先の沢間へ向かう索道のもので、滝沢方面へ向かう索道のためのシェッドが別にあると推測されるだろう。
そこで、地名駅から金谷方(南側)を眺めると150mほどの所にコンクリートの遺構のようなものがあるのが見える。
ということで、こちらも訪ねてみた。

地名駅南側(金谷方)にある元・シェッドの遺構部分を北側(千頭方)から眺めたところ。天井がオープンカットされているが、シェッドの面影はある。そしてこちらの出入り口は翼壁が付いたタイプだ。電車は16000系使用の下り普通。
南側(金谷方)から眺めたところ。側壁の形状からかつて天井があった頃の洞門はアーチ型だったことが解る。走っているのはC56 44 SL牽引の上り列車。
索道の開業の方が大井川鐵道より前なので、駅の南北にシェッドがあるということは、線路が後に索道を2度くぐるように敷設されたことになる。ナゼ大井川鐵道の線路が索道の駅の東側を通ったのかなど、建設にまつわるこの辺りの歴史の謎は尽きない。
この訪問で地名駅東側に寝台特急「さくら」のヘッドマークを軒下破風に掲げた民宿が建っていたのをみつけたので、その写真で記事を締めくくろう。

地名駅プラットホーム東側すぐの場所に建っている、破風に「さくら」のヘッドマークを掲げた民宿。なお、線路とは反対側にある庭にはレールのオブジェも飾られていたりする。
ここに掲載の内容はアップ日時点の情報になります。その後に状況の変化や、変更があった場合にはご容赦ください。

[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。