駅やや近探訪…東舞鶴の海軍記念館を訪ねる

大東亜戦争終結80年祈念 不定期シリーズ

[場所]JR舞鶴線・小浜線 東舞鶴駅 西北西約2km

本年は大東亜戦争が終結してから80年の節目の年になり、そしてこの2025年8月15日には80回目の、日本国内で世間的に言われている終戦の日を迎える。これに因んで、筆者が過去に訪れたことのある大東亜戦争に所縁の展示がある施設のうち、デジカメ化後の写真で撮ってあった3テーマに添う箇所を、不定期シリーズにはなるけれども紹介していこう。その第2回は、福井県舞鶴市の海上自衛隊舞鶴地方総監部内にある海軍記念館をご紹介。
なお、鹿児島県の「鹿屋航空基地資料館」は2022年11月15日アップにてすでに紹介済みなので、そちらの記事を見ていただくとして、この度のリストに入っていないことを予め申し添えておく。

舞鶴線には、東舞鶴駅と西舞鶴駅があって、海軍記念館の最寄り駅(とは言っても約2km)は東舞鶴駅の方。電車は125系
タイトルでは「駅やや近」と記したのは、駅から西北西に約2kmくらいあるためで、この距離は駅近ではないとは思ったが、徒歩ルートの途中には、北吸隧道跡や赤レンガパーク、海上自衛隊北吸係留所(後述)といった見どころが点在しているので歩いて行ってもそれ程苦にならない道中と思い「やや」の文字を付けて駅近の仲間に入れさせていただいた。

海軍記念館

海軍記念館は、国道27号「総監部前」交差点の南側にある「海上自衛隊舞鶴地方総監部」のゲートから入場した奥に建っている。

海軍記念館へと通じる海上自衛隊舞鶴地方総監部のゲートの外側。国道27号側から眺めたトコロ。
タイトル写真になっているのが海軍記念館で、昭和39年(1964年)5月27日に舞鶴地方総監部大講堂(旧海軍機関学校大講堂・昭和8年10月完成)の一部に設立された施設になる。
この海軍記念館は、上写真のゲートを入り、約150mほど先の左側にあるので、歩いてスグに着くことができる。

ゲートを入って約150m歩いたら海軍記念館に着く。左端に少しだけ写っているのが海軍記念館の玄関。中央の建物は海上自衛隊舞鶴地方総監部。右端に半分だけ写っているのが海上自衛隊第4術科学校。この建物は昭和5年3月の竣工。
上写真右に建っている「第4術科学校」の資料室も、海上自衛隊舞鶴地方隊HPによると、現在は見学が可能なようだが、筆者が訪れた約8年前には何かの都合かで見学ができなかったと記憶している。
なので、コチラの写真はない。
海軍記念館と第4術科学校資料室は、見学可能日および見学時間が限定されているので、詳しくは下記の海上自衛隊舞鶴地方隊HP内「見学のご案内」を参照していただければ…と、お願いする。
https://www.mod.go.jp/msdf/maizuru/kengaku/kengaku.html
それでは、海軍記念館の館内へ入っていこう。

海軍記念館の中心を成すホール。
そして館内には、このホールを中心にエントランスなど周辺へ日本海軍に所縁の品や資料が多数(約500点)ディスプレイされている。その展示品の数々の中から、この度は少しだけ紹介していこう。

「皇國の興廢この一戦にあり」の額。
日露軍艦存失比較(在東洋)。
「世界の三大記念艦」に横須賀の三笠が入っている。
上の展示品の写真を見て、気がついた方は多いと思うが、舞鶴は東郷平八郎中将を初代司令長官として鎮守府が設置された地であるので、やはり日露戦争における帝國海軍の聯合艦隊関係の展示品が多い。
その中にあって、昭和戦前の日本海軍の艦船模型なども展示されている点は、筆者世代にとっては、ワシントン軍縮条約(動物の方ではない/笑)により空母中心主義へと移ってゆく、これ以後からの戦前・戦中の時代の軍艦になると、ある程度は軍備の歴史が読めてくるので眺めていて有りがたい。

戦艦大和の模型で縮尺不明。左の砲塔は1/150スケール。
手前左から、駆逐艦冬月、駆逐艦野分、駆逐艦初雪。奥左から、駆逐艦峯風、駆逐艦春雨(初代)、駆逐艦東雲(初代)。すべて縮尺不明。
すべて縮尺1/400スケールで、左から本文参照(汗)、軽巡洋艦多摩、軽巡洋艦大淀、重巡洋艦青葉、重巡洋艦鈴谷、戦艦比叡、戦艦扶桑、航空母艦隼鷹。
実は、上写真のうち一番左の艦船は説明プレートの文字を、筆者撮影の写真から艦名が解読できなかった。なのである程度の憶測で書かせていただく都合上、文が長くなるので、写真キャプション内では「本文参照」として、コチラに記させていただくことにした。
艦名の解読は、まず艦型から特型駆逐艦なのは予測できたのと、説明プレートから艦名が1文字なことは確認できた。なので、そこから舞鶴に関係が深い艦船の中で艦名が1文字の特型駆逐艦を調べてみたところ、「漣」であろうと導きだされた。間違っていたらゴメン。
この項で上述したが、海軍記念館の資料や展示品は約500点ある。ココで紹介しているのは、その一部なことを改めて申し添えておく。

海上自衛隊北吸係留所で見つけた謎の線路跡

海上自衛隊舞鶴地方総監部の、国道27号を挟んだ海側は海上自衛隊北吸係留所のスペースになっていて、この桟橋には日常護衛艦が何艇か係留されている。コチラのスペースも、海軍記念館と同様に見学可能日および見学時間限定にて見学することができ、係留されている艦艇を間近に眺めることができる。
見学のご案内は上述の、海上自衛隊舞鶴地方隊HP内「見学のご案内」と同じURLなので、そちらを参照していただければ…と、お願いする。
https://www.mod.go.jp/msdf/maizuru/kengaku/kengaku.html
さて、この海上自衛隊北吸係留所のスペースには、鉄道線路の廃線跡と思われるレールがコンクリートに埋もれた形で、ほんの少しだけ残っている。
せっかくなので、その写真も掲載しておこう。

東の区画、西寄りからの東向きの眺め。左の護衛艦は、手前DD-118ふゆづき、その先DDG-175みょうこう。
西の区画、東よりからの西向きの眺め。右の護衛艦は、奥DE-232せんだい、手前DD-118ふゆづき。
ナゼここに廃線跡があるのかというのは、戦前からの軍港なので、その頃は物資輸送に鉄道がかかせなかったわけだから、桟橋にまで線路が敷設されていたことは当時としては普通の光景であろう。そして係留所がコンクート舗装される時に、その線路が撤去されずに埋もれて残った形がこの廃線跡と思われる。
ただ気になるのは廃線跡がある同地点まで、どのようなルートを辿って線路が敷設されていたのか? という点になろう。
なぜなら、グーグルマップにて旧・舞鶴線の北吸隧道から先のルートを予想で辿っていくと、そのまま延ばした経路では北吸係留所の桟橋(岸壁)と並行には線路を敷設できないからになる。
ということで、またまた過去を調べた結果、海上自衛隊舞鶴地方総監部のゲート付近に中舞鶴駅なる終端駅が存在していることが解った。そしてその中舞鶴駅があった位置に現在、SLが保存されていることも判った。それが何と、筆者がそのSLを写真に撮っていたことも判明した。←まぁ鉄道趣味者なら当たり前の行為である(笑)。

中舞鶴駅跡地は「中舞鶴公園」になっていて、C58 113 SLが置かれているので場所はスグに解る。位置的には海上自衛隊舞鶴地方総監部のゲートから西へ200mくらいの地点。
ココに駅があったということが解れば、あとは北吸係留所へと至る配線の分析は簡単である(以下略)。

ところで、記事中では「ワシントン軍縮条約」以後の歴史観に私感を交えたりと、戦史の史観において、現在の教科書あたりとはズレがあるように見られるかもしれないが、筆者の戦争史観は、「アジアの解放のために日本人が立ち上がった」という認識が、小学生高学年の頃にのみ読んでいた月刊「丸」と、同時期に放送されていたTVアニメ「決断」の影響に拠りできあがっているトコロが大きく、その後に興味が鉄道に移ったため、戦争や軍備の知識は小学生の頃から進歩していない点は否めないので、何か発言に偏りがあってもお許ししていただきたくお願いしたい。
せっかくなので、TVアニメ「決断」第1話「真珠湾攻撃」のユーチューブのURLを下に載せさせていただく。
https://www.youtube.com/watch?v=u-8PatBAAdo

タンゴ・エクスフローラの終焉!?

記事の内容は、海軍記念館のネタから大きく逸れ、東舞鶴駅の一駅綾部寄りの、西舞鶴駅の話題になるが、おお目に見ていただきたい。
さて、西舞鶴駅が京都丹後鉄道との分岐駅なことは、当サイトの読者ならご存知と思う。
この駅の片隅に永らく留置されていたKTR001形タンゴ・エクスフローラのお別れイベントが、偶然にもこの記事をアップする1週間前の2025年6月1日に開催され、その行く末が界隈にて一時的な話題になった。
このイベント後に車輛が廃車になる模様との噂がある。コレにより同車輛はついに解体されてしまうのか? とも思われるが、どぉなんだろう!?
個人的には筆者自身の好きな車輛デザインではある。
とりあえず、哀悼の意を持って、本記事の写真を撮った当時に、京都丹後鉄道の車窓から撮ったKTR001形タンゴ・エクスフローラの写真にて当記事を〆させていただく。

京都丹後鉄道 西舞鶴-四所 間を走行する列車の車窓から撮影したKTR001形タンゴ・エクスフローラの豊岡方。画質にシャープさがなく感じるのは窓ガラス越しなのもあるが、さらに4倍くらいに拡大トリミングしているため(汗)。
ここに掲載の内容はアップ日時点の情報になります。その後に状況の変化や、変更があった場合にはご容赦ください。

[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。