大船渡線と約100m並行する謎のトロッコレールを探る…後篇

ナローゲージの線路が陸中松川駅の北寄りから端を発して、大船渡線に沿って敷設されている…この線路の正体を探るべく最奥を巡ってみた

[場所]JR大船渡線 陸中松川-貎鼻渓

JR大船渡線に一ノ関駅方から列車に乗車した場合、陸中松川駅を発車してスグの車窓左側にトロッコのモノと思わしき謎のナローゲージ線路が、大船渡線と並行して、2箇所に分けて約100mに渡り敷設されているのを目撃できる。この線路の正体を探るべく、現地を訪ねてみた。訪れてみるとこの場所にはナローゲージ線路があるだけでなく、他にも見どころが多かったので、枠の都合から単発では紹介し切れないので、この度は3回シリーズとさせていただくことにして、後篇として陸中松川駅より見て最奥(北側)に建つ東北砕石工場&隣接する群像のひろばを眺めていくこととする。

大船渡線は貯蔵サイロ&ハッカー機棟(左の建造物)の脇を通っている。踏切は第一今泉街道踏切で、コレを渡った東側の地点からの西向きの眺め。右の建造物は東北砕石工場。
中篇では、この貯蔵サイロ&ハッカー機棟までを紹介した。後篇では右の建物と、その奥の謎のアーケードへと潜入する。

中篇で紹介の貯蔵サイロ&ハッカー機棟の対面(北側)に建つ東北砕石工場を後篇ではご紹介

北側のトロッコ線路の突端に「貯蔵サイロ&ハッカー機棟」が建っていることは、中篇で紹介したが、この棟の対面(北側)には「旧・東北砕石工場の選鉱場棟」(筆者が勝手に命名)の建造物(以後は正式名の「東北砕石工場」と表記)が建っている。

第一今泉街道踏切の手前から眺めた東北砕石工場の選鉱場部分。
上写真のベルトコンベヤ下の壁に掲げられている「ここが、雨ニモマケズへの道だった」のプレート。
この「東北砕石工場」の建物内には砕石に関する様々な機器や紹介プレートの展示があって、「石と賢治のミュージアム」の入館チケットを持っていれば、共通で内部を見学することができる。
その陳列品の中から、ココではトロッコと坑道に関する展示物を掲載していこう。

東北砕石工場の建物内の坑道展示。なんか中篇も見たような、見覚えがあるトロッコ(鉱車)がいる。
トロッコのレールも展示されていた。
「坑道案内」の説明プレート。
手前のプレートに、昔のトロッコ軌道の写真が掲出されている。
■東北砕石工場の西側を眺める
東北砕石工場の展示室から出て、西を向くと、古枕木を並べた歩道が見える。位置的には写真5枚上の説明プレートの先になる。

東北砕石工場の玄関前からの西向きの眺め。この右の壁に写真5枚上のプレートが掲げられている。アーケードの路面には古枕木が並べられているのが解る。
そしてこの位置の頭上には年季が入ったベルトコンベヤが架かっている。
そのベルトコンベヤの設置スタイルを眺めてみよう。

ベルトコンベヤの貯蔵サイロ&ハッカー機棟側の接点。
上写真の下の開口部。
右が貯蔵サイロ&ハッカー機棟。左が東北砕石工場棟。その手前がアーケード状の古枕木敷設の歩道。
■群像の広場にも箱トロがいた!!
上写真の左側に写っているアーケードが、上にて記した古枕木を並べた歩道で、この奥が「群像のひろば」という空間になっていて、「宮沢賢治と東北砕石場の人びと」の原寸大フィギュアが並んでいる。

アーケードの奥が「群像のひろば」になっている。
群像のひろば。右に箱トロが…。
ところでなんと、このフィギュアの右に箱トロが展示されている。
中篇で紹介した北側のトロッコ線路に展示されていた箱トロとはタイプが異なるようなので、コチラの外観も4方向からグルッと眺めていこう。

箱トロの東側。
箱トロの北側。
箱トロの西側。
箱トロの南側。
そして「宮沢賢治と東北砕石場の人びと」の説明プレートの写真にてこの項を〆ることとする。

「宮沢賢治と東北採石場の人びと」のフィギュアの説明プレート。
一般的な「旅のガイド」ならコチラの写真を先に掲載するべきなんだろうけれども、鉄道系サイトということで、後回しにしたことをお許しいただきたい。

■東北砕石工場の周辺を歩いてみた…
東北砕石工場の鄙びた雰囲気の全景も見ておきたい。そのような訳で全体像の写真を撮ろうと、大船渡線の線路を第一今泉街道踏切で渡り、東へ100mほどの地点から、西向きに撮影したのが下の写真になる。

第一今泉街道踏切から東100mほどの地点に立つ謎のオブジェ。奥は東北砕石工場など一連の建造物で、背側には県道282号 東山薄衣線が通っている。とりあえず東北砕石工場の右にある階段の存在を覚えておいてほしい。
この場所には謎のモニュメントが設置されているが、コレは県道282号東山薄衣線から「石と賢治のミュージアム」へ行く道へ入る口に立っているので、おそらくその目印なのであろう。
さて、上写真の東北砕石工場の右脇に階段が見えるのが確認できると思う。
そのような階段を見つけてしまうと、コレは砕石工場上の石灰石受入口へ登れるルートではないかと思ってしまうのは人情というモノで、そこまで戻ってこの階段を上がってみた。

上の本文に登場している階段上からの陸中松川駅方(南向き)の眺め。
上写真でも説明している通り、この階段は途中で途切れていて、砕石工場のテッペンまでは辿り着けなかった(汗)…残念。
このような気分になると、もぉ砕石工場上の石灰石受入口を見なくては気が済まなくなるモノで、グーグルマップで調べると、県道282号を北へ向かい、県道19号一関大東線へ出て、この通りを西へ200mほどの距離で行けることが解った。ならばということで、同ルートを歩いて砕石工場のテッペンへと向かい、辿り着いて撮ったのが下の石灰石受入口の写真になる。

やっと辿り着いた東北砕石工場の上の石灰石受入口。
せっかくなので、この場所から南向きに眺めた陸中松川駅の写真も載せておこう。

石灰石受入口脇からの陸中松川駅方(南向き)の眺め。コチラからは駅全体が見渡せる。
この地点から北東に1kmほどの位置に大船渡線の「第一砂鉄川橋梁」が架かっているのを、これまたグーグルマップで見て知り、時刻を見ると、あと30分ほどで上り列車が、さらに下り列車が陸中松川駅にて交換してコチラもスグにやってくることが解ったので、同鉄橋へと県道19号を歩いて向かい、旅客列車が走っているシーンの動画を撮ってみた。
その切り出し写真が下になる。

第一砂鉄川橋梁を渡るキハ110系気動車。左が貎鼻渓駅方、右が陸中松川駅方。
上写真のユーチューブのURL。
https://youtu.be/dHAfh3Pe12Q

そして、「第一砂鉄川橋梁」から300mほどの位置に貎鼻渓駅があることもグーグルマップで確認できたので、結局陸中松川駅へは戻らずに、1駅間を歩いてしまった(笑)。
貎鼻渓駅前に「石と賢治のミュージアム」の案内看板が立っていたので、その写真を載せておこう。

貎鼻渓駅の駅前広場に立つ「石と賢治のミュージアム」の看板。他に「貎鼻渓」の案内図もしっかりと立っているのでご安心(?)を…。
⚫️石と賢治のミュージアム 利用案内
https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,21154,149,html

大船渡線 一ノ関-陸中松川 間の貨物列車のこと

大船渡線 一ノ関-陸中松川 間の貨物列車は1996年2月23日をもって列車の設定がなくなった。
筆者がそれ以前の1981年3月に撮った国鉄大船渡線の貨物列車の写真が発掘されたので、コレも掲載させていただく。

1981年3月に筆者撮影の、大船渡線 岩ノ下→陸中松川 間を走るDE10重連牽引の貨物列車。写真に牽引されている貨車はタキ1900形4両だが、この編成の後にはワムも連結されている。
ナゼこの写真をお見せしたかったかというと、牽引している貨車がタキ1900形だったからになる。
下は前篇でも掲載した写真だが、よく眺めると、陸中松川駅西側のいわゆる東北砕石工場側の貨物ホーム上に発着していたトロッコ車輌は平トロだったので、ここから国鉄の貨車に積み込まれていたのは袋詰めの石灰石ということになる。

前篇にも掲載した1981年3月に筆者撮影の、陸中松川駅西側の貨物ホーム。左奥が陸中松川駅の旅客ホーム。この写真では、貨車はワムと車掌車しか写っていなかった。
なので、国鉄線の貨物ホームに発着していた貨車はワムになるハズである。
しかし、上々写真に写っていた貨車はタキ1900形なので、運んでいるのは粉状になったドロマイトや石灰粉、もしくはセメントということになろう。
輸送品目がそぉならば、陸中松川駅の何処かにタキ1900形へ粉製品をつめ込むためのホッパーがあることになる。
といった流れで、過去の陸中松川駅の写真の数々を眺めていたら、駅東側の専用線の廃線跡を撮影した写真の中に、彼方にホッパーと思わしき建造物が建っているのを発見した。

1981年3月に筆者撮影の、陸中松川駅の東側の貨物ホームと、そこに敷設されていたナローゲージの専用線の廃線跡。「安全+第一」の右に見えるタワー状の建造物がホッパー。国鉄の1,067mmゲージの線路にはタキ1900形、ワム、車掌車の他にトラも見える。このトラでは原石を運んでいたのだろうか!?
本来は駅東側のナローゲージの専用線の配線跡を被写体として撮った写真であるが、時を経て別の見方をすると、新たな証拠が発見されるのは面白い。

ここに掲載の内容はアップ日時点の情報になります。その後に状況の変化や、変更があった場合にはご容赦ください。

[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。