東海道本線 揖斐川橋梁に並行して架かる謎の橋

[場所] JR東海道本線 穂積-大垣

東海道本線に乗っていると、穂積-大垣 間の中間あたりで揖斐川を渡るが、その川の上流側(穂積方から見て右手)すぐに並行して架かる、まるで鉄道橋梁のように見える旧い鉄橋を目撃している人は多いだろう。これは現在、歩行者・自転車専用に使用されている橋で、地元では「新開鉄橋」または「沢渡鉄橋」と呼ばれている。

さてこの橋だが、実は本当に元は鉄道橋梁だったのだ。それも、国の重要文化財に指定されている大そうな建造物である。では、なぜそのようになったのか? それは「原位置に現存する国内最古の鉄道橋梁」だからだ。

大垣側岸から眺めた揖斐川橋全景。左が上流で、右は東海道本線。
大垣側岸から眺めた揖斐川橋全景。左が上流で、右は東海道本線。

この橋は1886年(明治19年)に竣工し、翌年の1887年1月21日に東海道本線の一部として加納(現・岐阜)-大垣 間が開業した時から供用を開始した初代揖斐川橋梁で、橋桁は1885年および1886年に英国のパテント・シャフト&アクスルトゥリー社で製造された錬鉄製下路ダブルワーレントラス(ピン接合)。しかしその後の1913年(大正2年)に新しい揖斐川橋梁が供用を開始したことにより道路に転用。1997年には歩行者・自転車専用の橋になった。

旧・揖斐川橋梁の説明板。
旧・揖斐川橋梁の説明板。

大垣側の橋台は草に覆われていて構造が見えなかったが、トラスがピン接合な点は良く解る。
大垣側の橋台は草に覆われていて構造が見えなかったが、トラスがピン接合な点は良く解る。

大垣側の河川敷から見上げた眺め。レンガの橋脚はコンクリートにより補強されている。
大垣側の河川敷から見上げた眺め。レンガの橋脚はコンクリートにより補強されている。

詳細は上写真の説明板の記述に譲るが、要するに、現役ではないが、架橋された当時から同じ場所に架かっている日本最古の鉄道橋梁だということだ。
では、日本最古参の現役鉄道橋梁はとこかというと、橋梁の場合、橋桁は新橋梁に架け替えるごとに古い物を他に転用されていったりしているので、何を持って「日本最古」になるのかの判断が難しい。

大垣側の袂からの眺め。路面はアスファルト舗装がなされている。
大垣側の袂からの眺め。路面はアスファルト舗装がなされている。

1886年英国パテント・シャフト&アクスルトゥリー社製の銘板。なぜか斜めに貼られている物がある。左下に見えるのは樽見鉄道の揖斐川橋梁。
1886年英国パテント・シャフト&アクスルトゥリー社製の銘板。なぜか斜めに貼られている物がある。左下に見えるのは樽見鉄道の揖斐川橋梁。

穂積側岸に残る東海道本線の二代目揖斐川橋梁の橋台。ということで、現在の東海道本線の橋梁は三代目になる。
穂積側岸に残る東海道本線の二代目揖斐川橋梁の橋台。ということで、現在の東海道本線の橋梁は三代目になる。

穂積側岸から眺めた揖斐川橋の袂。左は東海道本線、右奥が上流に架かる樽見鉄道の揖斐川橋梁。
穂積側岸から眺めた揖斐川橋の袂。左は東海道本線、右奥が上流に架かる樽見鉄道の揖斐川橋梁。

穂積側岸から眺めた揖斐川橋全景。右が上流。
穂積側岸から眺めた揖斐川橋全景。右が上流。

穂積側の橋台。右奥は二代目橋梁の橋台になる。
穂積側の橋台。右奥は二代目橋梁の橋台になる。

橋桁の底を下から見上げると、鉄道橋であった形跡がはっきりと解る。
橋桁の底を下から見上げると、鉄道橋であった形跡がはっきりと解る。

例えば、位置的には日本最古の鉄道橋としての東海道本線の多摩川に架かる六郷橋梁だが、初代の供用開始は皆が知っている1872年(明治5年)5月7日の品川-横浜(現・桜木町)間の開通と同時になるが、この時の橋は橋台こそ石造だったが橋脚と橋桁は木造で、わずか5年後の1877年(明治10年)には2代目の複線鉄橋に架け替えられている。この場合は初代が木造であったからそれを他に転用することは無かったと思うが、2代目の鉄橋の橋桁は1912年(明治45年)に3代目橋梁が完成するまで使用され、その橋桁部分は1915年(大正4年)に開通した現・御殿場線の第2酒匂川橋梁に再使用されている。そのように、橋梁の場合、橋脚・橋台と橋桁は経歴的には別物として扱われることが多く、純粋に日本最古の判断が難しいのだ。ちなみに、2代目六郷橋梁の橋桁は1965年(昭和40年)まで御殿場線第2酒匂川橋梁として使用された後、現在は愛知県犬山市にある博物館明治村にて一部が保存されている。

こちらは現役最古参の橋桁(左のダブルワーレントラス3連部)として山形鉄道フラワー長井線 四季の郷-荒砥 間で活躍する最上川橋梁と、そこを渡るYR-880形で、1887年(明治20年)4月25日に供用開始した英国パテント・シャフト&アクスルトゥリー社製の東海道本線 初代木曽川橋梁の橋桁を、1923年(大正12年)に当地に移設した物。同時期竣工のほぼ同サイズの鉄橋を、現代の列車が走るとどのくらいの大きさに見えるかの対比で掲載してみた。ちなみにこの場所より下流のJR左沢線の最上川橋梁にも木曽川橋梁から1921年(大正10年)に移設された同じ経歴を持つ橋桁が架かっている。
こちらは現役最古参の橋桁(左のダブルワーレントラス3連部)として山形鉄道フラワー長井線 四季の郷-荒砥 間で活躍する最上川橋梁と、そこを渡るYR-880形で、1887年(明治20年)4月25日に供用開始した英国パテント・シャフト&アクスルトゥリー社製の東海道本線 初代木曽川橋梁の橋桁を、1923年(大正12年)に当地に移設した物。同時期竣工のほぼ同サイズの鉄橋を、現代の列車が走るとどのくらいの大きさに見えるかの対比で掲載してみた。ちなみにこの場所より下流のJR左沢線の最上川橋梁にも木曽川橋梁から1921年(大正10年)に移設された同じ経歴を持つ橋桁が架かっている。

樽見鉄道の揖斐川橋梁を、横屋側岸から眺めたところ。上写真のYR-880形とほぼ同じ車格の18m車ハイモ295-516形で鉄橋の大きさを比較すると、製造年代による大きさの違いに当時の技術の進歩が窺える。ちなみに一番左の橋桁は1916年(大正5年)川崎造船所製で、それ以外の橋桁が1900年アメリカ合衆国Aアンドp・ロバーツ製下路曲弦プラットトラス。
樽見鉄道の揖斐川橋梁を、横屋側岸から眺めたところ。上写真のYR-880形とほぼ同じ車格の18m車ハイモ295-516形で鉄橋の大きさを比較すると、製造年代による大きさの違いに当時の技術の進歩が窺える。ちなみに一番左の橋桁は1916年(大正5年)川崎造船所製で、それ以外の橋桁が1900年アメリカ合衆国Aアンドp・ロバーツ製下路曲弦プラットトラス。

上流200m程の所に並行して架かる樽見鉄道の揖斐川橋梁の橋桁も実はそれなりの経歴があったりする。
この鉄橋の樽見側の第2連~第6連は元々は1901年(明治34年)に東海道本線(現・御殿場線)山北-駿河小山 間が複線化された時に酒匂川および相沢川に架設された橋桁で、1900年にアメリカ合衆国のAアンドp・ロバーツ製の下路曲弦プラットトラス。それを1956年に開通した国鉄樽見線の揖斐川橋梁に転用している。

初代揖斐川橋梁へ行くには樽見鉄道 東大垣駅下車が便利で、樽見鉄道の線路をくぐり、東海道本線の築堤沿いに歩いていくと、その築堤をくぐるためのレンガ造りの南北自由通路トンネルが4箇所存在する。これは一番大垣寄りの坑門。
初代揖斐川橋梁へ行くには樽見鉄道 東大垣駅下車が便利で、樽見鉄道の線路をくぐり、東海道本線の築堤沿いに歩いていくと、その築堤をくぐるためのレンガ造りの南北自由通路トンネルが4箇所存在する。これは一番大垣寄りの坑門。

二番目の自由通路トンネルの坑門。
二番目の自由通路トンネルの坑門。

三番目の自由通路トンネルは、途中からコンクリート造になっている。
三番目の自由通路トンネルは、途中からコンクリート造になっている。

四番目の自由通路トンネルは用水路とのメガネ構造だ。
四番目の自由通路トンネルは用水路とのメガネ構造だ。


[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。