単純トラス橋としては1径間 日本最大スパンの橋梁

鉄道旅を一層たのしくする車窓・施設案内シリーズです。
[場所] 近鉄 京都線 桃山御陵前-向島
近鉄京都線「澱川(よどがわ)橋梁」は、単純トラス橋としては1スパン(径間)が日本最大径間の橋梁として有名で、桃山御陵前-向島 間を流れる宇治川に架かっている。橋梁の「スパン」とは、超単純に言ってしまえば橋台もしくは橋脚間に架かる桁の長さのことで、なんとこの 澱川橋梁 は宇治川の両岸にある橋台間164.59mを橋脚なしのトラス桁一つで跨いでしまっているのだ。それもこれが昭和初期の架橋だというのだから、なおさら驚きだ。

北岸下流側からの眺め。左の12200系と右の3200系は数秒前に橋の上でスレ違っているが、合わせて10両が載ってもびくともしない。それもそのはずで、60t級の旧型電車が12両載っても大丈夫な荷重計算(短期荷重か長期荷重かは不明)がされているとのこと。ちなみにタイトル写真は北岸上流側からの眺め。
南岸上流側からの眺め。トラス橋梁の左右の橋台と土手外の高架橋との間は、単純桁橋で結ばれている。電車は1020系。
南岸下流側からの眺め。桁のタイプは下路曲弦プラット分格トラス。電車は22600系Ace+22000系ACEの4連。

スパンは長くなればなるほど架橋が大変になるが、かといって短くなると橋脚の数が増えるため、これまた架橋の手間が増える。昭和初期の頃の渡河する橋梁のスパンはほどほどの径間がベストだったはずで、例えば同橋梁の上流300mほどの所に並行に掛かっている1936年(昭和11年)架橋の観月橋は橋脚を6本立てている。いわゆる、この辺で宇治川を渡るには、同橋建設の頃としてはそのくらいの数(澱川橋梁の当初本計画では7本)がベストということが見てとれよう。
では橋梁を橋門構側からも眺めてみよう。

北岸の橋門構を上流側から眺めたところ。川看板には「うじがわ」と標記されている。電車は1230系。
北岸の橋門構を下流側から眺めたところ。こちら側のトラス橋梁と高架橋の間に架かる道路橋は下路プレートガーダ桁。
南岸の橋門構を上流側から眺めたところ。こちら側のトラス橋梁と高架橋の間に架かる道路橋はPC桁。電車は12400系サニーカー。
南岸の橋門構を下流側から眺めたところ。橋門構は横支材2本の間に対傾構をクロスで入れた迫力モノ。電車は京都市交通局10系。

澱川橋梁は奈良電気鉄道の建設計画により1928年(昭和3年)10月16日に完成した。橋桁の製造を担当したのは川崎車輛兵庫工場(完成時:発注時は川崎造船所兵庫工場)になる。では、戦前の鉄鋼が貴重な時代にナゼここだけ鋼材をより多く使用しなければならない1スパンの巨大トラス橋を架けなければならなくなったのか。それは、この橋梁が架かる河川敷が、帝国陸軍の架橋演習場だったため、この敷地内に橋脚を立てることが認められず、この上へ無橋脚で架橋することで陸軍側の了解を得て着工にこぎ着けたという経緯があったからだ。当記事ではあらすじ程度の説明に留めたので、もっと詳細を知りたい方は他のサイトを参照していただけたらとお願いしたい。
なお、澱川橋梁は2001年10月18日に国の登録有形文化財に登録されている。

北岸側の支承を対岸上流側から眺めたところ。橋台は案外狭い。
北岸側の支承を下流側から眺めたところ。ピンは随分細いが、1983年に新型支承に交換されているというからコレで十分なのだろう。

南岸側の支承を対岸上流側から眺めたところ。こちら側の支承は左右にRC壁が立っているため、土手下の道路からは眺められない。電車は3200系。
さて、澱川橋梁が架かっているのが「宇治川」なのに、なぜ“よどがわ”橋梁なのか。日本地理に詳しい方ならいまさらネタだが、不思議に思った読者もいるのではないだろうか。一般的な地図上では淀川は、この澱川橋梁から8kmほど下流の 宇治川 と 桂川 と 木津川 が合流する辺りから始まるように見えているが、実は 宇治川 は 上流の 瀬田川 も含めて 淀川 の本流で、ここを「淀川」といっても何の差し支えもないことになる。では「よど」にナゼ画数が多い「澱」の字を使っているのか。この明解が国土交通省 淀川河川事務所のホームページ「淀川Q&A」に紹介されていたので、一部抜粋にて引用させていただくことにする。

「淀川の名前の経緯ですが、法律上の河川名及び区域、告示施行日を回答させていただきます。
●旧河川法(明治29年~昭和39年)においては、下記のように官報告示が施行されています。
 ・澱川:(左)滋賀県栗太郡瀬田村 (右)滋賀県滋賀郡石山村から海に至る(明治29年6月11日施行)
 ・旧淀川:淀川の分岐点から海に至る(明治29年6月11日施行)
 ・派川/新淀川:(左)大阪市東淀川区天神橋筋9丁目9番地先標柱 (右)大阪市東淀川区浜町116番地先標柱の見通し線から海に至る(昭和7年7月25日施行 大阪府告示501)
●新河川法(昭和40年~)においては、下記のように官報告示が施行されています。
 ・淀川(宇治川・瀬田川含む):(左)大津市瀬田大江町字高砂2179番の2 (右)大津市晴嵐1丁目字南1040番の1地先から海に至る(昭和40年4月1日施行)
 ・旧淀川(大川/堂島川/安治川を含む):淀川の分派点から海に至る(昭和40年4月1日施行)
もともと淀川は下流で3川(神崎川/中津川/淀川)に分かれており、明治29年に上流(琵琶湖)から河口を澱川として位置付け、同年に開始した新淀川の開削工事(淀川改良工事)が計画されていたことから淀川(大川)を旧淀川と位置付けたと考えられます。
また、新淀川開削後に新淀川の堤防の拡築等が完成した昭和7年に新淀川として告示され、その後河川法の改正を経て上流から新淀川を経て河口までを淀川として位置付けられたと考えられます。」

下流の説明部分まで引用させていただいたため長くなったが、宇治川絡みの箇所を読み解くと、1896年(明治29年)以前は 瀬田川 と 宇治川 も含めた 淀川本流 は 「澱川」の字が使われており、その後1965年(昭和40年)までこの字が告示に記されていたと解釈できる。なので、その字を1928年完成の橋梁の名にも使用したということなのだろう。

架線は鉛直材をつなぐの横支材に下げられている。電車は3220系。
ところで、タイトルに「澱川橋梁はトラス橋としては1径間 日本最大スパンの橋梁」とあり、この 『単純』という文字が気になった方もいるのではないだろうか。
実は現在、ゲルバートラス橋も含めると澱川橋梁のスパンは日本一ではなくなってしまうからだ。では、スパン日本一のトラス橋はどこになるのか。それは大阪府にある「港大橋」で、主径間510mの道路橋、1974年に完成している。なおゲルバートラス橋を含めると澱川橋梁はスパン・ベストテンにも入らなくなってしまう。
ちなみにこの港大橋はスパン・ランキング世界3位の実力を持つ。では1位はどこか。それはカナダのケベック橋で、主径間549mの道路鉄道併用橋、1917年完成。世界2位はスコットランドのフォース鉄道橋で、主径間521mの鉄道橋、1890年完成。ケベック橋、フォース鉄道橋はともに写真がないので、気になる方はどこかのホームページで検索していただけたら幸いだ。

港大橋は阪神高速道路の天保山JCT-南港北出入口 間に架かる上下2層の道路橋で、上層が4号湾岸線および16号大阪港線、下層が5号湾岸線となっている。写真は南西側南港北側からの眺め。
橋梁は乗りものに乗車して渡っている時は、その凄さに気がつかない場合が多い。この 澱川橋梁 も然りなので、ぜひ外観も眺めていただけたらと思う。なお最寄り駅は近鉄線ではなく、京阪宇治線 観月橋駅になる点も申し添えておこう。

ここに掲載の内容はアップ日時点の情報になります。その後に状況の変化や、変更があった場合にはご容赦ください。

[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。