第二次世界大戦終結80年祈念 不定期シリーズ
[場所]JR京浜東北線・東京メトロ南北線 王子駅近
& JR中央東線 吉祥寺駅やや近
本年は第二次世界大戦が終結してから80年の節目の年になり、そしてこの2025年8月15日には80回目の、日本国内で世間的に言われている終戦の日を迎える。これに因んで、筆者が過去に訪れたことのある第二次世界大戦に所縁の展示がある施設のうち、デジカメ化後の写真で撮ってあった3テーマに添う箇所を、不定期シリーズにはなるけれども紹介していこう。その第3回は、東京都北区の平和祈念像と東京都武蔵野市の平和祈念像と東京都三鷹市の平和祈念像の3体をご紹介。
なお、鹿児島県の「鹿屋航空基地資料館」は2022年11月15日アップにてすでに紹介済みなので、そちらの記事を見ていただくとして、この度のリストに「筆者が過去に訪れたことのある第二次世界大戦に所縁の展示がある施設」で入っていないことを予め申し添えておく。
■長崎の平和祈念像
昭和20年(1945年)8月6日に広島市街へ米軍により原爆投下。同年8月9日に長崎市街へ米軍により原爆投下。この事実は、ある程度の年齢になった日本人なら誰でも知っている真実だろう。
この被爆地2都市のうち、長崎市には長崎電気軌道 平和公園停留場 近くの爆心地から北へ約350mの地点に「平和祈念像」が建立されている。
制作工程の流れの順番からすると、まずはこの長崎の平和祈念像の石膏原型像から紹介すべきだろうが、この度は、東京都北区王子駅近の平和祈念像から紹介してゆく。
東京都北区の平和祈念像
東京都北区王子駅近の平和祈念像は、JR京浜東北線 王子駅 北口から北西へ約120mほど、東京メトロ南北線 王子駅 からなら5番出口から出てスグのトコロの北とぴあ入口脇に鎮座している。
やはり記事的には、まずは平和祈念像のスタイルをイメージで捉えてもらうために、実際の写真をお見せするのが重要だからになる。
では、北区の平和祈念像がどぉして王子の地に建立されたのか? などの経緯は下の写真の像の台座に掲げられていたプレートの説明文を読んでいただきたくお願いしたい。
ところで、タイトル写真などで京浜東北線の電車が写っているが、ということは京浜東北線の電車からも平和祈念像が見えるのでは…と思い、乗車したおりに車内から眺めていたら、やはり見えた。
東京都武蔵野市の平和祈念像
東京都武蔵野市の井の頭自然文化園内に鎮座する平和祈念像が石膏原型像なので、コチラがルーツと言えるから、本来ならこの平和祈念像を先に紹介するべきではあるのだけれども、上述の同園内の展示作品は原則撮影禁止という理由によって2番目にさせていただいた。
開館時間:9時30分~16時30分(入園は16時まで)
休園日:毎週月曜日(祝日・都民の日に当たるときは翌日)(年末年始)
入園料などは下記URLにて。
https://www.tokyo-zoo.net/zoo/ino/hours.html
タペストリーの写真は、1954年(昭和29年)の平和祈念像の石膏原型像完成時の撮影と思われ、かなり以前の写真なので、それならと、2024年11月撮影の「長崎の平和祈念像」の写真にてこの項を〆よう。

東京都三鷹市の平和祈念像
東京都武蔵野市のお隣の三鷹市には平和祈念像が鎮座する公園がある。コチラは屋外に安置されているので、拝観がしやすい。入園料なども掛からない。
筆者はJR吉祥寺駅から吉祥寺通り(都道114号)を徒歩にて訪ねたが、同公園近くには路線バスの小田急・みたかシティバス「杏林大学病院入口」バス停留所があるので、コレを利用する方法もあろう。
ちなみに、徒歩で吉祥寺通りを行くと、沿道には一部で話題の「三鷹の森ジブリ美術館」があることも申し添えておく。

ナゼ、この度はキャッチフレーズが「第二次世界大戦」になったのか?
この不定期シリーズのキャッチフレーズが、前回、前々回にては「大東亜戦争終結80年祈念」としていたが、この度の記事では、どぉして「第二次世界大戦終結80年祈念」としたのか? そのわけもココで記しておく。
まず言いたいのは、ひと昔前までアメリカ合衆国民の一部に語り継がれていた言葉に「日本による真珠湾攻撃がなかったら原爆投下もなかった(アメリカ英語の原文は不明)」というのがある。これは言っている側は大変失礼な言葉だということに気がついていないようで、1941年12月8日(日本時間)のハワイ真珠湾攻撃は軍港など軍事施設を攻撃・破壊した戦術で、これと市街地空襲で一般市民が住む街に原子爆弾を投下して破壊・市民虐殺をした行為を、同一ラインに並べて後付けでアメリカ合衆国民の一部が責任転嫁をしているようにしか読み取れない。
そもそもこの言葉にある「真珠湾攻撃」は、当時のアメリカ合衆国政府がヨーロッパ戦線へ物量にモノいわせ参入いたしたく、当時枢軸国の一員としてナチス・ドイツと同盟を結んでいた大日本帝國にアメリカ(ハワイは当時は準州)を先に攻撃させて、アメリカ合衆国民に向け、世論としてアメリカ軍がヨーロッパ戦線へと参戦する口実を作る目論見が垣間見えてしまう。そのためか、戦前の日本への鉄鋼禁輸措置など嫌がらせをしているその間に、表向きハワイ真珠湾を奇襲攻撃しやすい状況を作ったり(アメリカ軍の主力は大西洋にいた)していた。その政策に引っかかった旧日本軍がハワイ真珠湾の軍港へ奇襲攻撃を仕掛ける作戦を実施してしまった。引っかかったと言える証の一つとして、真珠湾奇襲攻撃の日に真珠湾に航空母艦が一隻もいなかったことも挙げられるだろう。
そしてコレにより、当時のアメリカ合衆国民の世論は戦争へと傾き、アメリカ軍がヨーロッパ戦線へと参入することに成功した。
そのような流れから、日米が太平洋を隔てて闘った戦争は、本来は2者だけの戦いではなく、世界を巻き込んだ戦争であることを謳いたくキャッチフレーズでは「第二次世界大戦」の語句を使わせていただいた。
せっかくなので、当時の大日本帝國が、満洲建国からハワイ真珠湾攻撃へと至る前までの流れも、簡略にて記させていただく。
満洲国とは、元々清王朝の建国の故地で、18世紀中頃から封禁政策を取り漢民族の移入を長らく禁じた地であった。(中略)1912年に中華民国臨時政府が樹立。同年清王朝皇帝溥儀が退位して清国滅亡。(中略)1931年〜1932年満洲事変勃発。その後に、満洲の地に大日本帝國の支援により清王朝最後の皇帝こと溥儀を皇帝として1932年に満洲国を建国するに至った。
この頃から欧米列強の日本を見る目が変わり、(中略)日本は1933年(昭和8年)に国際連盟からの脱退を決定し1935年に正式に脱退。同じ頃の1933年にナチス・ドイツが国際連盟脱退を実行した。
1936年(昭和11年)11月に日独防共協定締結。1937年11月に日独伊防共協定が成立。
1940年(昭和15年)6月14日に、ドイツ軍がフランス侵攻においてパリに無血入城。22日に休戦条約に調印してフランスが降伏する。
これによりナチス・ドイツと協定で結ばれている日本は、フランスからドイツを介して南部仏印(フランス領インドシナ)の維持・監理を任されたといわれている。
そして南部仏印に旧日本軍を進駐。このあたりからアメリカ合衆国政府との関係に陰りが出たためか、アメリカによる対日経済制裁として、1940年7月に対日輸出制限措置をはじめ、在米日本資産の凍結、日本への石油輸出禁止などを次々と打ち出した。
1940年9月27日に、日独伊3国同盟が成立。
アメリカ合衆国政府は、その後も対日経済制裁を次々と打ち出してくる。
こぉした歴史的日々を経て、1941年(昭和16年)12月8日(日本時間)を迎えることになる。
ちなみに私感になるが、こぉして日米関係をおさらいしていくと、アメリカ合衆国とは大統領によって日本へ対する性格・態度が大きく変わる国家であると思えてくる。
アメリカの大統領になった方には国力を闘争に向けるのではなく、平和[PEACE]秩序に貢献する方針を貫いていただきたく祈っている。
ところで記事中では、戦史の歴史感において、現在の教科書あたりとはズレがあるように見られるかもしれないが、筆者の「大東亜戦争」以後の戦争史観は、「アジアの解放のために日本人が立ち上がった」という認識が、小学生高学年の頃にのみ読んでいた月刊「丸」と、同時期に放送されていたTVアニメ「決断」の影響と、それに増して、当時に発刊された戦史モノ単行本に拠りできあがっているトコロが大きく、その後に興味が鉄道に移っていったため、戦争の知識は小学生の頃から進歩していない点は否めないので、何か発言に偏りがあってもお許ししていただきたくお願いしたい。
せっかくなので、TVアニメ「決断」第1話「真珠湾攻撃」のユーチューブのURLを下に載せておく。
https://www.youtube.com/watch?v=u-8PatBAAdo
ここに掲載の内容はアップ日時点の情報になります。その後に状況の変化や、変更があった場合にはご容赦ください。
[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。