境内地を通る踏切を訪ねる…岐阜県下呂市・下原八幡神社

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[場所]JR高山本線 飛騨金山-焼石

神社仏閣の境内を横切る鉄道線路の踏切を訪ねる不定期シリーズです

全国の鉄道路線の中には神社仏閣の境内地に踏切が通っている場所がタマにある。そしてその景色って「ナゼここに!?」って意外性があり不思議な気分にさせてくれる。
当サイトでは、そのような境内ナカにある踏切を「境内地踏切」と名づけて訪ねる不定期シリーズを展開しているが、この度2021年5月からの約半年ぶりにご紹介しよう。
ということで、登場するのは岐阜県下呂市に鎮座する下原八幡神社の境内地踏切だ。

社殿側から眺めた境内地踏切。左が岐阜方、右が富山方になる。列車はキハ85系使用の特急ひだ。
ところで下原八幡神社を訪ねる前に、飛騨金山駅について一言。
この駅は「金山」を名乗っているが、岐阜県金山地区は飛騨金山駅から飛騨川と馬瀬川を渡った西岸のかつての美濃国にあり、飛騨金山駅は馬瀬川東岸の飛騨国下原地区に位置していた。なので駅が開業した1928年(昭和3年)当時の立地は飛騨ではあるが金山ではなく、駅名がややこしかった。それが解消されたのは昭和の大合併により益田郡金山町が発足して下原地区も金山町になってからで、これにより金山地区も飛騨になり、さらに2004年には下呂市となって、「飛騨金山」の駅名に違和感はなくなった。
このことを後世に伝えるためか、飛騨金山駅には「美濃路←これより→飛騨路」の道標ボードが掲げられている。

飛騨金山駅のラッチ内側からの眺めで、左が岐阜方、右が富山方。中央に道標ボードが見える。
下原八幡神社が鎮座する場所は、JR高山本線 飛騨金山駅の北北東約1.3km地点になる。
場所については、飛騨金山駅前に案内図が3つも立っている、その内の2つを下に載せておくので、これを参照していただきたい。

飛騨金山駅を出てスグ右に立つ案内板。地図は右が北で、中央下の「八幡神社」が 下原八幡神社 だ。
飛騨金山駅を出て正面に立つ案内板。地図は上が北で、右端に「下原八幡神社」が記されている。

■では下原八幡神社へ向かっていくとしよう
下原八幡神社へは線路沿いの道を歩いていくと、4度ほど踏切を渡る(境内地踏切を除く)が、辿りつける。

公道から眺めた下原八幡神社入口。左が富山方、右が岐阜方になる。列車はキハ85系使用の特急ひだ。
参道入口に神社の解説板が立っているので、御由緒などはそちらを読んでいただきたくお願いする。

神社入口右脇に立つ説明板。ご祭神は応神天皇。
一之鳥居の前から眺めると、二之鳥居との間に踏切があるのが窺える。
それでは境内へ入っていこう。

一之鳥居をくぐって仰いだ社殿。踏切は第4種だ。
さらに参道を進むと、そこは将に神社境内なのが解る。
この境内地踏切は「八幡踏切」という名称で、上写真を見ての通り第4種踏切なのが解るだろう。特急が走っているような路線でコレは危ないような気もするが、ここから70mほど焼石寄りに第1種の「福来踏切」があるので警報機的には聴こえるから問題ないとの考えなのだろうか。

列車内から後方展望で眺めた 八幡踏切で奥が富山方。先に見える踏切が福来踏切。
社殿側からの入口の眺め。左が岐阜方、右が富山方になる。
さらに社殿寄りから鳥居2体を並べて見たトコロ。鳥居はともに明神鳥居である。
社殿側からの境内の眺めで、この画角で2両がやっと入る。列車はキハ25系使用の普通。
そして次は社殿前からの、線路方の眺めになる。
ちなみに、記事は入口より社殿へ向かって進んでいくような流れで構成したが、実際にはまず本殿へお参りをしてから撮影をしていることを申し添えておく。

本殿前からの踏切方の眺め。やや高台になっている。
車輛が来ると、このように見える。列車はキハ85系使用の特急ひだ。
下原八幡神社境内に立つ案内板。飛騨金山地域の名所・旧跡も紹介されている。
下原八幡神社の境内には周辺を含んだ案内板が立っていたので、それも載せておこう。
飛騨金山は、案内板を見る限り観光的な見所が何げに多い地域なことが解った訪問でもあった。

この冬、JRで行く冬の飛騨路キャンペーンを開催

なお、JR東海は2021年12月から2022年3月まで「JRで行く冬の飛騨路」キャンペーンを催す。ただし「ずらし旅 選べる体験」を展開するJR東海ではあるが、とりあえず飛騨金山は範疇に入っていない。けれども、そのURLを載せておこう。
https://recommend.jr-central.co.jp/hida-tabi/winter/

ここに掲載の内容はアップ日時点の情報になります。その後に状況の変化や、変更があった場合にはご容赦ください。

[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。