市振駅のランプ小屋 えちごトキめき鉄道 日本海ひすいライン

鉄道旅を一層たのしくする車窓案内シリーズです。今回はランプ小屋
ランプ小屋ってなんでしょうか??

「日本海ひすいライン」をおさらいしよう

2015年3月14日に整備新幹線である北陸新幹線の長野駅-金沢駅間が開業したことにより、並行在来線の経営分離が行われ、JR線であった信越本線の長野駅-直江津駅間と北陸本線の直江津駅-金沢駅間は、それぞれの県の第三セクター法人が運営する路線として、県ごとに分割された。

その北陸本線部分の新潟県側が『えちごトキめき鉄道 日本海ひすいライン』、富山県側が『あいの風とやま鉄道』となって運行されており、時刻表を読むと大半の旅客列車は泊駅で分割されているため、一見この泊駅が両鉄道の境界のように見えてしまうが、実際は『市振駅』が境界駅になっている。と、まぁここまでのことなら当ウェブを読んでいる皆さんならすでにご存知のことと思う。

境界駅「市振駅」にある珍しいランプ小屋

さて、その市振は越後国と越中国の境にもなっており、北側に日本海が広がり南側には山肌が迫るという狭い地形で、古くは関所も置かれていた土地だが、市振駅はそのさらに町はずれの海と山に挟まれた場所にあるので、このことからも境界駅といえど構内はそれ程大きくない小駅だということが想像できると思う。さて、そんな駅ではあるが、駅南西側にランプ小屋が建てられて、それが現在まで残っており、列車に乗ると山側にその姿を見ることができる。

市振駅のランプ小屋を糸魚川方から眺めたところ。壁と屋根の境目の煉瓦がタル木状に配している特長がある。瓦はその輝きから、近年に葺き替えられているかも知れない。
市振駅のランプ小屋を糸魚川方から眺めたところ。壁と屋根の境目の煉瓦がタル木状に配している特長がある。瓦はその輝きから、近年に葺き替えられているかも知れない。

ランプ小屋とは、明治時代の電気器具がまだ未発達だった頃に、鉄道の客車及び駅務や保線用の照明用ランプ、燃料などを収納していた倉庫のことで、危険物を取り扱うことから堅牢な煉瓦造りとなっている。特に当時の木造客車の車内照明には灯油ランプが使われていたため、夕暮れ時になると、停車する主要駅で係員が各客車の屋根に上がり、作業窓からランプを吊り下げる仕組みになっていた。このためランプと燃料を収納するのに使われたランプ小屋は、明治時代に建設された鉄道などの主要駅には一般的に存在したが、電気の発達による用途の消滅や駅の増改築に伴い急速に姿を消していった。
市振駅のランプ小屋を富山方から眺めたところ。こちら側の窓枠は木製になっている。市振駅の写真に関してはプラットホームや車内からの撮影のため、画質が酷くて申し訳ありません。
市振駅のランプ小屋を富山方から眺めたところ。こちら側の窓枠は木製になっている。市振駅の写真に関してはプラットホームや車内からの撮影のため、画質が酷くて申し訳ありません。

現存しているランプ小屋はウィキペディアによると、この市振駅の他に、根室本線金山駅、磐越西線馬下駅、信越本線三条駅、高崎線新町駅、中央東線甲府駅、しなの鉄道小諸駅、東海道本線原駅、東海道本線藤枝駅、武豊線半田駅、関西本線柘植駅、関西本線加茂駅、奈良線稲荷駅、、あいの風とやま鉄道東富山駅、IRいしかわ鉄道津幡駅、北陸本線貨物支線敦賀港駅、山陽本線通津駅、鹿児島本線大牟田駅などにあるとのことで、まだ全国的に見ることができる。
こちらは敦賀港駅のランプ小屋。2014年の時点では屋根がスレート葺きになっているが、改修でとんな屋根が出現するか楽しみだ。
こちらは敦賀港駅のランプ小屋。2014年の時点では屋根がスレート葺きになっているが、改修でとんな屋根が出現するか楽しみだ。

市振駅のランプ小屋は、1912年(大正元年)に北陸本線泊駅-青海駅間が開通した時に市振駅が開業しているので、その際に造られた物と思われるが、大正時代になってもランプ小屋が造られたということは、当時のこの辺りの電気事情が窺える。そして、全国にまだまだあるランプ小屋の中からなぜ、市振駅のランプ小屋をあえて紹介したかというと、この駅は前述のように2015年3月14日に第三セクター鉄道の駅になったということで、このランプ小屋のこれからの成りゆきが気になったからである。
せっかくなので、北陸本線沿線のランプ小屋の話しをもう一つ。「沿線」と記したのは、北陸本線敦賀駅から北へ延びる貨物支線の敦賀港駅にあるからで、さらにこの線は2009年に運行を休止しており、もう列車がやってくることがまずないと思われるからだ。

ここで敦賀港駅ランプ小屋の解説を案内看板から流用します。

「完成/一八八二年(明治十五年)
 建設/鉄道省 煉瓦造平屋建 敦賀市金ヶ崎1-1
        間口7.1m 奥行4.1m
敦賀港駅は一八八二年(明治十五年)金ヶ崎駅として出発した。敦賀は日本海側で一番早く鉄道が通った町であり、港の荷物を直接取り扱うのが金ヶ崎駅だった。その後、一九一二年(明治四十五年)新橋〜金ヶ崎間に欧亜国際連絡列車が週三往復走るようになり、国際港敦賀は多くの人と荷物で賑わった。当時の建物がほとんどなくなってしまったなかで残ったのが煉瓦造りの『ランプ小屋』だ。列車を走らせる際には、後方にその存在を知らせる光が必要だが、電気機具等が未発達な当時の光源として使われたのが灯油を燃やすカンテラだった。そして、引火性の強いこの油類を保管するための危険物倉庫として建てられたのが赤煉瓦倉庫だった。『ランプ小屋』と呼ばれて長く親しまれてきた。このランプ小屋に積まれている煉瓦をよく見ると多くの煉瓦に、『平』とか『一』、『八』といろいろ刻印がきざまれている。これは、煉瓦を作った職人の名前の一部だそうです。
敦賀観光協会」

鉄道省ができたのが1920年(大正9年)で、それよりはるか以前の1882年(明治15年)は「工部省」だったはずと、そんなツッコミはやめておくとして、北陸本線貨物支線が休止したとはいえ、地元の福井県敦賀市が、「敦賀港駅のランプ小屋には、珍しい特徴があり、現存最古級の鉄道建築と解った」ということで、2015年秋までに内部を見られるように改修する計画とのことだ。
こちらは、将来の成りゆきが期待できるランプ小屋といえるだろう。

[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。

鉄道旅を一層たのしくする車窓案内シリーズ
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