大河「鎌倉殿…」に合わせアップする気だった富山の記事×2

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[場所]JR氷見線 越中国分-雨晴・JR城端線 福光駅

NHK大河ドラマは2022年には「鎌倉殿の13人」が放送されていることは皆さんご存知だろう。
ドラマ前半は源頼朝が鎌倉入りしてから鎌倉幕府成立までのストーリーで、筆者は富山県内に関わっている人物と出来事(物語?)として、木曾義仲の砺波山(倶利伽羅峠)の戦いと、源義経が京都から奥州へ逃れる際に雨宿りをした伝説の残る雨晴岩が、どのようなシーンになるか注目していた。
このうち、木曾義仲は第13話(4月3日放送)に登場、第14話における砺波山の戦いはそれなりにシーンあったが、重要キャストの巴御前については第16話(4月24日放送)にて木曾義仲が討たれた粟津の戦いのその後が何かウヤムヤになってしまった。

富山県内ではないが、あいの風とやま鉄道/IRいしかわ鉄道の境界駅 倶利伽羅駅の脇に立つ「木曽義仲ゆかりの地」の看板。牛のシルエットは戦いに用いられたと言われている火牛。
雨晴岩伝説については、壇ノ浦の戦いが第18話(5月15日放送)で、第19話では源義経は京都にいたが、その後に奥州へ向かう途中では、越中を通るシーンがあると思いきや、それどころか京都~奥州のルートの語りもなく、挙げくに第20話(5月22日放送)では気がつくとすでに奥州平泉に居る始末で、時間と距離感覚が全くない流れであった。

JR氷見線雨晴駅から東南東向きに眺めた雨晴海岸と立山連峰。海中の小島が女岩なのは有名だろう。
まぁコレはTVドラマの宿命で限られた話数なので跳ばされても仕方ないシーンなのかも知れないが、何となく釈然としないので、ココで富山県高岡市の雨晴海岸にある「雨晴岩」と、富山県南砺市の福光駅前に立つ「巴御前終焉の地」の碑に寄せてコラムをさせていただく。
ではナゼ富山県にコダワルかというと、筆者は実は「富山と東京」というサイトの記者もやっており、源義経が奥州へ落ちのびる話と巴御前の生き様では、どのようなストーリーが繰り広げられるか注目していたからになる。ということで、同サイトへアップ済み記事を一部手直しの上、ココに載せていることを予め申し添えておく。

源義経が雨宿りをした「雨晴岩」

雨晴岩伝説の時期は壇ノ浦の戦いから2年後なので、源義経一行が京都から奥州へと赴くシーンは第20話くらいかなと予想して、その直後に記事にしようと写真を用意して待っていたら、まさかのシーンなし。でも、せっかく写真を揃えてあったので記事にしてしまった(笑)。

JR氷見線雨晴駅近くの海岸からの南東向きの眺め。雨晴岩は、海中に立つ女岩の右の松ノ木が立っているトコロにある。車輌はキハ40系。越中国分-雨晴
氷見線の下り列車に乗ると越中国分駅を出発して300m程先のトンネルを抜けた後の車窓右手に富山湾が広がる。この辺から1.5kmくらいが雨晴海岸で、ココの象徴ともいえる海面に浮かぶ岩が2つ眺められる。まず目に入るのは「男岩」、そして続いて見えてくる「女岩」は富山湾越しに聳える立山連峰の景色が有名なので、ご存知の方は多いだろう。
だが「雨晴海岸」の名の由来になった岩は別にある。
それは岸に寄り添うように立つ「雨晴岩」になる。別名は「義経雨はらし岩」とも呼ばれている。

義経雨はらし岩を西(氷見)側から眺めたトコロ。左の踏切は「義経岩踏切」という。
義経雨はらし岩の線路(南)側。左が氷見方、右が高岡方。
義経雨はらし岩を南東(高岡)側から北西(氷見)向きに眺めたトコロ。
海岸側から眺めた義経雨はらし岩。下が不思議な形をしていて何げに奇岩である。
義経雨はらし岩の海側に立つ石碑。
義経雨はらし岩の社側に立つ石碑。
義経雨はらし岩は、1187年(文治3年)に源義経が京都から奥州の藤原秀衡の元へ赴く際に、ここ雨晴海岸を通りかかった折りに にわか雨 にあい、この岩の下に家来ともども雨宿りをして、雨が晴れるのを待ったという伝説から、この岩に「雨晴岩」の名が付いたと言われている。

キハ40系の車格から義経雨はらし岩の大きさが大体判るだろう。越中国分-雨晴
では、1187年以前にはこの海岸は何と呼ばれていたのか? 疑問が出てくるのではなかろうか。
歴史や短歌が好きな方なら、奈良時代の貴族で歌人の大伴家持が、伏木の地にある国府に国守として746年(天平18年)から5年の間赴任してきており、その間にはこのあたりの風景を多くの歌に詠んでいることを解っているから、雨晴海岸以前の地名がその中にあって然りと思うだろう。

義経雨はらし岩の西側に立っている説明板。
という流れで、そんな歴史を鑑み上写真の説明板の大伴家持の歌を読むと、奈良時代には雨晴海岸は「渋溪(しぶたに)」と呼ばれていたと導きだすことができよう。
また時代は変わって、雨晴海岸とすでに呼ばれていたはずの江戸時代に、俳人の松尾芭蕉が1689年(元禄2年)による紀行文おくのほそ道にて越中 那古の浦で詠んだ句には「有磯海(ありそうみ)」の言葉が入っている。これはドコのことなのか、これまたややこしくなってしまう。
有磯海とは、実は場所の名ではなく、海面上に突き出した岩礁のことで、まさに女岩を指している。言葉の出所を簡潔に纏めると、万葉集巻十七にある、大伴家持が越中で詠んだ歌の中の「海の荒磯」からであり、その後の歌人に詠まれていくうちに、平安時代には平仮名の「ありそうみ」に変型し、室町時代には「有磯海」の漢字があてられたと言われており、越中の代表的歌枕になっている。

福光駅前に建立されている「巴御前終焉の地」の碑

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のストーリー中では、巴御前は木曾義仲の側近として共に戦ってきたが、義仲が粟津の戦いで討たれた以後の生涯は詳述されていない。
「源平盛衰記」によると、巴御前は「和田合戦の後に、越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り、91歳で生涯を終えた。」という後日談が語られている。
富山県内には巴御前の墓所とされる地として、小矢部市の倶利伽羅県定公園と南砺市の巴塚公園の2箇所があげられる。このうち巴塚公園については、場所が福光駅から近いため、その最寄の福光駅駅前広場へ「巴御前終焉の地」の碑が2015年に建立されている。
時系列が前後するけれども、粟津の戦いの放送は第17話くらいかと予想して、JR城端線 福光駅駅前広場に建立のこの碑を4月末ころに紹介しようと考えていたが、こちらもタイミングを外してしまった(大笑)。
なので、かなり時期が遅くなったが、この機会に富山絡みのネタを纏めてアップさせていただいた。

碑は引立烏帽子のような形をしている。
巴御前は出家後に「兼生尼」と称していたらしい。
鎌倉殿の13人のストーリーの進行状況的にはアップ日時点では巴御前は現状生存しているので、ドラマ内に何かの機会に登場してくれることを願いたい。
さらに欲を言えば、いずれ巴御前の生涯がメインの物語を、同じキャストで、どこかのTV局がドラマ化していただけると、喜こぶ。


■JR城端線 福光駅の もぅ一つの見どころ
鎌倉幕府成立の時代とは関係ないが、福光駅を筆者が以前に訪問した際に記し、当サイトで2016年とチョット前の時期にアップした記事「福光駅に停まっている混合列車の正体は?」に掲載した写真のうちの1枚も、せっかくなので載せさせていただく。

JR城端線 福光駅の脇に建つ建物と、その壁画。奥が高岡方。
この壁画が描かれている建物は駅前駐輪場で、「LOVEふくみつ推進委員会」が提案したデザインとのことだ。

ここに掲載の内容はアップ日時点の情報になります。その後に状況の変化や、変更があった場合にはご容赦ください。

[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。