JR東金線 大網-福俵 間にある謎の駅跡

JR東金線の電車に乗ると大網駅から福俵駅寄りに約500m程の地点で駅のような所を通るのをご存知の方は多いと思う。実は、この地点は1972年5月26日まで大網駅だった場所で、地図を見てもらえると想像できるが配線はスイッチバック構造になっており、当時の房総東線(現・外房線)の大網駅を通る旅客列車はここで進行方向を変えていた。

房総の鉄道史に詳しい方なら今さらの話しだが、乗り鉄などの旅での車窓ネタの一助になればと思い、2015年夏の状況を当サイトに紹介させていただいた。
なお、文中では「外房線」と「房総東線」とに表記が混在して使用されているが、1972年7月15日の同線 蘇我-安房鴨川 間電化の時に房総東線から外房線へと改称されているため、当記事内の表記もこの日を境に使い分けている点を申し添えておく。

大網駅に掲示されていた地図に、旧線跡を赤い破線で書き込んでみた。左が北で多少見づらい点はお許し願いたい。
大網駅に掲示されていた地図に、旧線跡を赤い破線で書き込んでみた。左が北で多少見づらい点はお許し願いたい。

上の地図は左が北になっており見づらいかも知れないが、赤い破線部分が旧線の茂原方面へ向かう線があった場所で、地図下右の円弧になっている現在の外房線ホームは、移設時の1972年5月27日に使用開始した新線部分である。
下の写真は駅前広場東側から千葉方面を眺めた光景で、右の築堤が東金線のホーム、左が地図下右円弧部にあたる外房線ホームになる。外房線はコンクリートの高架線になっている点からも、写真右側の現・東金線の線路よりも後で造られたものだということが判る。
駅前広場東側から千葉方面を眺めたところ。現在は二股に分かれた間を駅前広場に利用している。手前2台のバスは小湊鐵道の左が日産ディーゼル工業UA系(富士重工7E)、右が三菱ふそうエアロスター。
駅前広場東側から千葉方面を眺めたところ。現在は二股に分かれた間を駅前広場に利用している。手前2台のバスは小湊鐵道の左が日産ディーゼル工業UA系(富士重工7E)、右が三菱ふそうエアロスター。

大網駅の東金線ホームの状況は以下3枚の写真を参照していただきたい。
さて、1972年5月27日には大網駅移転でスイッチバックが解消されたのと同時に複線の土気トンネルが完成して、土気-永田間が複線化された。
実は土気-大網 間の旧線は房総の国鉄線の中では有数の勾配線区で、深い切り通しなどの有名撮影地も存在していた。そのような区間であったため、外房へ向かう貨物列車は勾配が比較的緩い総武本線-成東駅-東金線経由で運転されていた。この状態が、新線の開通により土気回りのルートに変更されるかと思われたが、その後も上記のルートで運転され、旧大網駅から外房線へデルタ線で抜けられる旧線がその後もしばらくは両線を接続する構内短絡線として使用されることになる。
ところで、土気-大網 間の旧線にあった深い切り通しの撮影名所跡だが、現在は埋められてしまい、昔を偲ぶことはほぼできないと思ってよいだろう。

外房線下りホーム千葉寄り端から土気駅方向を眺めたところ。右の209系電車が走っている線が現在の東金線へと接続する線路で、左のカーブした複線が外房線。東金線側が元々は直線で延びていたであろうことが窺われる点からも、こちらが本来の主本線であったことが察せられるだろう。ちなみに、1972年5月26日の大網駅移転前夜までの旧線は、この辺は単線で使用していたという点も加味しと眺めると当時の姿を連想しやすい。
外房線下りホーム千葉寄り端から土気駅方向を眺めたところ。右の209系電車が走っている線が現在の東金線へと接続する線路で、左のカーブした複線が外房線。東金線側が元々は直線で延びていたであろうことが窺われる点からも、こちらが本来の主本線であったことが察せられるだろう。ちなみに、1972年5月26日の大網駅移転前夜までの旧線は、この辺は単線で使用していたという点も加味しと眺めると当時の姿を連想しやすい。
東金線ホーム成東寄り端からの眺め。209系電車が走っている線路が外房線に直通できる4番線で、右にちらりと見える線路が行き止まりの3番線。東金線は左に大きくカーブをして、左隅の丘が少し窪んでいる所を線路が通っている。
東金線ホーム成東寄り端からの眺め。209系電車が走っている線路が外房線に直通できる4番線で、右にちらりと見える線路が行き止まりの3番線。東金線は左に大きくカーブをして、左隅の丘が少し窪んでいる所を線路が通っている。
外房線下り線ホームから北側を遠望して捕らえた東金線を走る209系電車。直線になっている辺りが旧大網駅跡。
外房線下り線ホームから北側を遠望して捕らえた東金線を走る209系電車。直線になっている辺りが旧大網駅跡。

旅客列車は土気回り、貨物列車は成東回りという状態は、貨物列車の行き先である新茂原駅のJR貨物による貨物の取扱を廃止する1996年3月16日まで続いたわけだが、これにより貨物列車が通らなくなった約1年後の1997年3月に構内短絡線は廃止された。
現在残っている旧大網駅跡は、JR東日本 大網保線技術センターとして活用されている。
そしてなんと、大網駅の東金線3番ホーム(行止り)と、4番ホーム(外房線直通)へ至る線路を分けるポイントが、駅から遥か先のこの保線技術センターの建物の前に設けられているのだ。ここに設けられた真実は定かではないが、保守点検の容易さを考えると、ある意味頷けなくもない。

旧大網駅南側端にある踏切からの現・大網駅方向の光景。この地点では線路はすでに分岐されていて、左が3番線、右が4番線に至る。
旧大網駅南側端にある踏切からの現・大網駅方向の光景。この地点では線路はすでに分岐されていて、左が3番線、右が4番線に至る。
上写真の同じ踏切から反対側の成東方を眺めたところ。左の青い屋根の建物がJR東日本 大網保線技術センターの建物で、その前に3番線と4番線の分岐器が配置されている。
上写真の同じ踏切から反対側の成東方を眺めたところ。左の青い屋根の建物がJR東日本 大網保線技術センターの建物で、その前に3番線と4番線の分岐器が配置されている。
上地点の右手東側には、かつて茂原方面の主本線であり、駅移転後も短絡線に使われていたのであろう線路跡が途中まで残っており、ここがかつてスイッチバック駅であった形跡を見ることができる。
上地点の右手東側には、かつて茂原方面の主本線であり、駅移転後も短絡線に使われていたのであろう線路跡が途中まで残っており、ここがかつてスイッチバック駅であった形跡を見ることができる。
タイトル写真の地点から反対側の成東方向を眺めた光景。過去の航空写真と照らし合 わせると、画面右の砂利が盛ってあるあたりが、かつての1番線ホームの土気・茂原 寄り端だった場所のようだ。
タイトル写真の地点から反対側の成東方向を眺めた光景。過去の航空写真と照らし合
わせると、画面右の砂利が盛ってあるあたりが、かつての1番線ホームの土気・茂原
寄り端だった場所のようだ。

保線技術センターは東金線基準で見ると山側にあるが、かつての旧大網駅駅舎は海側にあった。
その駅舎跡は現在、児童公園になっており、大塚喜一氏の歌碑と腕木信号機がモニュメントとして建てられている。
せっかくなので腕木信号機の細部写真をお見せしておこう。ちなみに、ここでは信号てこが信号機の真下に配置されているが、そんなことはありえないということは、このサイトの読者諸氏なら百も承知のことと思うので、あえて腕木信号機の写真ではキャプションを省略してある点をご理解いただきたい。

旧大網駅駅舎跡地に開設された児童公園。腕木信号機の右の旗のポール下に歌碑がある。
旧大網駅駅舎跡地に開設された児童公園。腕木信号機の右の旗のポール下に歌碑がある。
跡地に立てられていた説明板。
跡地に立てられていた説明板。
大塚喜一氏の歌碑。背面には「鎮魂・平和を祈りて二○○四年秋 町民有志建立」と記されている。
大塚喜一氏の歌碑。背面には「鎮魂・平和を祈りて二○○四年秋 町民有志建立」と記されている。

旧大網駅駅舎跡地の腕木信号機

旧大網駅駅舎跡地の腕木信号機

旧大網駅駅舎跡地の腕木信号機

旧大網駅駅舎跡地の腕木信号機

駅舎跡地前から延びる、かつては大網駅前メインストリートであったのであろう通りの、駅を背にすぐ左の細道に入ると程なく旧駅北側端の踏切に出られる。そしてここから北側成東方を眺めると切り通しになっているのが窺える。線路をもう少し東寄りに通せば丘を迂回でき、建設当時の1890年代としてはかなりの掘削をともなったと思われるこんな大工事をしなくとも済んだのでは…と思いつつ、土気-大網 間の勾配を緩くするための築堤を造る土砂をここから確保したのかのかもと、工事における先達の苦労努力に思いを馳せてしまったりするが、そんな思考もこういった旧蹟めぐりの愉しさなのだろうと思う。

旧大網駅北側端にある踏切からの成東方の眺め。右が東金線の主本線。左はその東金線から分岐した引き上げ線で、ここから背後にある保線技術センターへとレールがつながっている。
旧大網駅北側端にある踏切からの成東方の眺め。右が東金線の主本線。左はその東金線から分岐した引き上げ線で、ここから背後にある保線技術センターへとレールがつながっている。
上の踏切からの反対側を眺めたところ。右の柵の外側の草むらのさらにその右にかつてはターンテーブルがあったとのことだ。
上の踏切からの反対側を眺めたところ。右の柵の外側の草むらのさらにその右にかつてはターンテーブルがあったとのことだ。

さて、旧駅南側端の踏切まで戻り、かつての茂原方面の主本線であり、1972年のスイッチバック解消後も1997年までは構内短絡線として生き残っていた線路の廃線跡を辿ることにしよう。
とはいったものの、廃線跡めぐりは文字であれこれ書いてもつまらないと思うので、記事文はこれまで。あとは写真とキャプションのみの紹介に留めておく。

旧大網駅南側端の踏切に戻り、廃線跡を辿っていこう。
旧大網駅南側端の踏切に戻り、廃線跡を辿っていこう。
上の地点からの反対側、茂原方の眺め。左上の樹木と右の金網の設備の間が線路が通っていた場所のようだ。盛夏に訪れため、せっかくのレンガ造りの橋台が草でほとんど見えないのが残念。
上の地点からの反対側、茂原方の眺め。左上の樹木と右の金網の設備の間が線路が通っていた場所のようだ。盛夏に訪れため、せっかくのレンガ造りの橋台が草でほとんど見えないのが残念。
小中川に架かる寄合橋付近から旧大網駅方を眺めたところ。中央の設備が上写真で見えていた金網の設備で、その反対側。これより南の小中川から大網街道までの間は線路跡の形跡はまったくないが、永田駅方からこの辺までは直線だったので、ルートの大方はだいたい想像できる。
小中川に架かる寄合橋付近から旧大網駅方を眺めたところ。中央の設備が上写真で見えていた金網の設備で、その反対側。これより南の小中川から大網街道までの間は線路跡の形跡はまったくないが、永田駅方からこの辺までは直線だったので、ルートの大方はだいたい想像できる。
大網街道からの茂原方の眺め。ここからまた線路があった形跡が散見できるようになる。とはいえ、外房線の築堤はすでにすぐ脇ではあるが。
大網街道からの茂原方の眺め。ここからまた線路があった形跡が散見できるようになる。とはいえ、外房線の築堤はすでにすぐ脇ではあるが。
永田寄りの分岐があった地点を、下り電車最後尾から大網方を展望したところ。架線柱がそこだけワイドスパンになっているので判りやすい。
永田寄りの分岐があった地点を、下り電車最後尾から大網方を展望したところ。架線柱がそこだけワイドスパンになっているので判りやすい。



[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。

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