道南いさりび鉄道の車窓から見える帆船は?

鉄道旅を一層たのしくする車窓・施設案内シリーズです。
[場所]道南いさりび鉄道 泉沢-釜谷

道南いさりび鉄道に木古内駅から乗車すると、泉沢駅を過ぎて1.5km程の地点の車窓右側に帆船のモニュメントが垣間見える。

これは幕末に太平洋を横断したことで有名な軍艦「咸臨丸」の模型で、プレジャーボートをベースに制作され、2007年4月15日に設置されたもの。なので縮尺は特に決まったスケールで作られているわけではなく、まずプレジャーボートの全長ありきで、そこからマストなどのサイズをモデルシップから割り出して作られている。場所は木古内町のサラキ岬という場所になる。
なお、制作から設置まで木古内町内外の有志グループ「咸臨丸とサラキ岬に夢見る会」が自力で行なっているとのことだ。

咸臨丸のモニュメントがあるサラキ岬の横を走るEH500形電気機関車牽引の貨物列車。北海道新幹線開業前の写真しかなく申し訳ないが、サイズ比較のために掲載してみた。現在この区間の貨物列車はEH800形が牽引しているのは言うまでもないだろう。
咸臨丸のモニュメントがあるサラキ岬の横を走るEH500形電気機関車牽引の貨物列車。北海道新幹線開業前の写真しかなく申し訳ないが、サイズ比較のために掲載してみた。現在この区間の貨物列車はEH800形が牽引しているのは言うまでもないだろう。

咸臨丸は、1857年(安政4年)2月にオランダのキンデルダイクにあるポップ・スミット造船所で建造された。我が国で初めてスクリューを装備した軍艦で、日本には同年9月に長崎に入港している。
この咸臨丸を有名にしたのは、やはり1860年(安政7年・万延元年)に太平洋横断を成し遂げたことにあろう。往路は旧暦1月19日に浦賀を出港して旧暦2月26日にサンフランシスコに入港する37日間の航海、帰路は日本人のみの手によって、旧暦3月19日にサンフランシスコを出港し途中ホノルルを経由して旧暦5月5日に浦賀に入港する46日間の航海を成し遂げている。
日本人の手によるこの太平洋横断の快挙は、我が国の近代国家形成の幕開けを告げる出来事であったことだろう。

咸臨丸のモニュメントは完成度が高いが、操舵輪がスケールオーバーなのは、ベースを思い起こさせるためのシャレか!?
咸臨丸のモニュメントは完成度が高いが、操舵輪がスケールオーバーなのは、ベースを思い起こさせるためのシャレか!?

では、なぜ咸臨丸のモニュメントがこのサラキ岬に設置されたかというと、この地が咸臨丸終焉の地だからである。
咸臨丸は1866年(慶応2年)に蒸気機関を撤去して帆船になり、翌年には輸送船となっている。さらにその翌年の1868年(明治元年)旧暦9月18日に新政府軍に拿捕された。この後は新政府の輸送船として、北海道開拓の人や物資の輸送の役目を担っていた。
そんな用に供されて3年。1871年(明治4年)旧暦9月19日に、箱館から小樽へ向かう途中に木古内町泉沢沖で暴風雨にあい遭難し、サラキ岬で破船、沈没してしまった。なおこの沈没での水難による死亡者は出ていない。
そんな咸臨丸が眠る地に、このモニュメントがその雄姿を讃えている。

サラキ岬から望む函館山。一昨年は草原越しの眺めだったが、日々整備が進む場所だけに、今年はどんな見え方をしているのだろうかと気になる。
サラキ岬から望む函館山。一昨年は草原越しの眺めだったが、日々整備が進む場所だけに、今年はどんな見え方をしているのだろうかと気になる。

沈没から時を経た1984年11月に、サラキ岬沖合2km、水深20mの地点で鉄製の錨が発見されて引き揚げられた。
大きさは2m程で、朽ち果てていたが、間もなくして様々な研究者から「この錨は咸臨丸のものではないか」「いや、そうではない」と両極の意見が出された。しかし本格的な調査がなされないまま月日が経過していった。
2006年9月、日本海事史学会会員の小川一男氏が鉄成分を放射性炭素測定などで調べたところ、錨が咸臨丸と同じ頃の欧州製と判明。この結果に同区域の遭難記録や、引き揚げ時に付けられていたアンカーがロープだったこと等を加味し「錨は咸臨丸のもの」と結論付けた(注1)
この錨は現在、木古内駅から西南西1.6km程の地点にある郷土資料館〔いかりん館〕(開館時間9時~16時・休館日 月曜日=月曜日が祝日の時には翌日=および年末年始)に保存展示されている。

ここに掲載の内容はアップ日時点の情報になります。その後に状況の変化や、変更があった場合にはご容赦ください。

参考文献
注1:木古内町観光協会HP「サラキ岬沖から引き揚げられた錨は咸臨丸の錨なのか?」

[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。