鉄道が主役の旅スタイルを応援する見どころ案内
[場所]JR山陰本線・境線 米子駅
駅ナカや駅近の鉄道にまつわるオブジェや
モニュメントを訪ねる不定期シリーズです
JR米子駅といえば「西日本旅客鉄道株式会社 米子支社」の最寄り駅であり、駅北方約1.5kmの境線沿いには「後藤総合車両所(旧・後藤工場)」があるのは当サイトの読者ならご存知だろう。なので、これらの存在をアピールするシンボルとして、何がしかの鉄道系モニュメントが展示されていることは想像できる。なんか出だしが、当サイト2019年12月1日アップの「駅前などにある鉄道系展示品を訪ねる(11)秋田県・秋田駅」(←その記事はココをクリック)と同じになっているが、やはり米子駅も、実際に訪ねてみると、それらを観光の主目的にしても良い程度の鉄道系の展示物が並んでいることが解った。
まずは本屋口駅前広場から見ていこう
上の写真2枚は、米子駅本屋口(この出入り口しかないが)駅前広場に展示されているモニュメントに添えられている説明板になる。それなら、これらがどんなモニュメントに関わって掲示されているのか? では上々写真の「山陰鉄道の歩み」の説明板が附されているモニュメントがある南西(下り)側から眺めていこう。
「陰陽線なる境鉄道の開通式を伯耆米子町に挙行し、試運転を行なへり。来会者一千余名(中略)同地は一帯に国旗、球灯をかかげ、歓喜の様、非常なり(後略)」。明治35年(1902)11月1日、境-米子-御来屋間35km開通式の模様を当時の新聞にはこのように伝えている。山陰で鉄道が敷かれたのは境線が最も古く、やがて山陰本線、伯備線が開通した。鉄道の開通によってそれまで盛んであった米子の海運は衰えたが、経済・社会の近代化は大きく促進された。米子市は昭和2年(1927)4月の市制施行後も交通の要地という地の利を得て山陰の中核産業都市として発展し、今日に至っている。山陰鉄道建設・発展に尽くされた先人の功績をたたえると共に、21世紀におけるさらなる発展を願って、ここに記念碑を建立する。平成9年7月吉日」
本屋口を出て駅前の北東(上り)側には「だんだん広場」というスペースがある。そしてこの中程には見出しの下々写真にある「ご案内」の説明板が附されているモニュメントが築造設置されている。それが以下の写真で紹介しているC62型SL+旧型客車2両の巨大オブジェになる。

鉄道とは関係ないが、コンビニ前に展示されていたカバも載せておこう。
駅チカには日本に現存する最古の客車
米子駅本屋口から北北西450mほどの地点に「旧・日の丸自動車法勝寺鉄道・二軸木造客車(フ50)」が展示保存されている。この車輛は「日本に現存する最古の客車」の称号があるので、米子駅で少し時間が取れたら、ぜひ訪ねてみたい場所でもあろう。
ではフ50の残り3面もぐるりと見ていこう。
駅ナカにも鉄道系展示品があるが…常設なのかは!?
外から先に紹介していったので駅ナカが後回しになってしまったが、これは駅構内の鉄道系展示品が常設ではない可能性もあるため、もしこの記事のアップ日時点においてすでにリニューアルされていると、これを見て訪れた人にフェイクニュースと思われたりしたら申し訳ないので、季節展示っぽい鉄道系展示品は、特に「変更があった場合にはお許しください。」ということを強調しするために、ラストに纏めて掲載させていただいた。
ではラッチ外の展示物から紹介していこう。
■2020年11月1日筆者追記:2020年9月5日から、米子駅本屋リニューアル工事のため、駅機能が仮駅舎へ移転しました。
ここに掲載の内容はアップ日時点の情報になります。その後に状況の変化や、変更があった場合にはご容赦ください。
[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。