かつて東海道線が稲荷駅を通っていた名残り

鉄道旅を一層たのしくする車窓・施設案内シリーズです。
[場所] JR奈良線 稲荷駅など
当サイト2016年8月にアップした『敦賀港駅のランプ小屋の改修が完了!!』の記事(その記事はここをクリック)の中で、そのランプ小屋を「現存最古級の鉄道建築…」と「級」の字をあえて添えさせていただいたのには訳がある。それは、これより旧いランプ小屋が、JR奈良線 稲荷駅に遺っているからに他ならない。

JR奈良線 稲荷駅は東海道線の駅だった

ランプ小屋は下り線プラットホーム奈良寄りの外側に建っている。
ランプ小屋は下り線プラットホーム奈良寄りの外側に建っている。

幹線筋から外れた場所に、日本最古の鉄道建築が建てられていることを不思議に感じる方がいるかと思う。
だが、東海道本線 膳所-京都 間は、いまでこそ新逢坂山トンネルと東山トンネル擁して、すんなりとつながっているが、同区間が1880年(明治13年)に官鉄として開通した時には、京都盆地の東に立ちはだかる東山峰に阻まれ、その南端を迂回するように、現在の奈良線 稲荷駅経由で建設された。このことは稲荷駅からの旧線跡の延長線上にある旧『逢坂山隧道』が歴史の教科書などに「外国人技師に頼らず、日本人だけで完成させた最初の山岳隧道」として出てきたりしているので、そういうことに興味がある方なら知っているのではないだろうか。
そして、その旧線が東山峰の南を回っていた証しともいえる遺構が、稲荷駅に遺っているランプ小屋なのだ。

駅の改札口から出て、道路側からランプ小屋を眺めたところ。右が京都方で、こちらの妻面の壁はモルタル塗りになっている。
駅の改札口から出て、道路側からランプ小屋を眺めたところ。右が京都方で、こちらの妻面の壁はモルタル塗りになっている。
左が奈良方で、こちらの妻面の壁はレンガ積み。
左が奈良方で、こちらの妻面の壁はレンガ積み。
上写真左にある説明板のアップ。近代化産業遺産として2008年度に認定されているのが解る。
上写真左にある説明板のアップ。近代化産業遺産として2008年度に認定されているのが解る。

その辺の詳しいことは上写真の説明板を読んでいただくとして、稲荷駅のランプ小屋は1880年に建てられ、敦賀港駅のランプ小屋は1882年(明治15年)に建てられたということで、稲荷駅のランプ小屋の方が古い鉄道建築物になる。

稲荷駅の駅舎。左手の奈良寄りにランプ小屋が見える。
稲荷駅の駅舎。左手の奈良寄りにランプ小屋が見える。

せっかくなので逢坂山隧道跡も眺めてみよう

膳所-京都 間が、現在の東海道本線から南に大きく回るように敷設された別線であった頃の名残りとして遺るもうひとつの遺構『逢坂山隧道』の大津駅側坑門跡も、せっかくなので眺めていこう。場所はJR大津駅の南西700m程のところにあり、国道1号と国道161号が合流するあたりにあるので、解りやすい。

『逢坂山隧道』の大津駅側坑門跡。左側が1880年に開通した方の隧道。
『逢坂山隧道』の大津駅側坑門跡。左側が1880年に開通した方の隧道。
『逢坂山隧道』の説明板。1960年10月14日に鉄道記念物に指定されているのが解る。
『逢坂山隧道』の説明板。1960年10月14日に鉄道記念物に指定されているのが解る。

隧道の歴史などについては上写真の説明板を読んでいただくとして、上々写真の2つの坑門のうち、左(南東)側の隧道が1880年に竣工した隧道で当初は単線で使用されていたが、1898年に右(北西)側の隧道が開通して複線の上り線用として使用を始めたことにより、左の古い方は下り線専用になった。

左側のトンネルの奥には扉があり、その中は京都大学の地殻変動の観測に使われているとのこと。
左側のトンネルの奥には扉があり、その中は京都大学の地殻変動の観測に使われているとのこと。
左側坑門の上部に掲げられた扁額のアップ。下り線側のみにある。
左側坑門の上部に掲げられた扁額のアップ。下り線側のみにある。
上の地点から180゜反対側を向いた眺め。画面中央のビルの右脇に旧線跡でもある国道1号が通っている。国道1号は右手さらに先の大津駅南側をも通っており、市街地の眺めからは、琵琶湖の湖面からかなり上がってきているのが解る。
上の地点から180゜反対側を向いた眺め。画面中央のビルの右脇に旧線跡でもある国道1号が通っている。国道1号は右手さらに先の大津駅南側をも通っており、市街地の眺めからは、琵琶湖の湖面からかなり上がってきているのが解る。

旧 『逢坂山隧道』は新逢坂山トンネルが開通する1921年(大正10年)まで使用され、このルート変更により鉄道トンネルとしての使命は終え、旧・東海道線の稲荷-京都 間は奈良線に転用された。

新逢坂山トンネルを抜けて、京都方から大津駅へ進入する223系使用の新快速。写真では新逢坂山トンネルの坑門は跨線橋のさらに先にあるため見えないが、複々線の線路のうち左の下り線2本が1921年に開通した方のトンネルへと続く線路になる。ちなみに、右にある丸いモニュメントは『北緯35度と大津駅』の碑。
新逢坂山トンネルを抜けて、京都方から大津駅へ進入する223系使用の新快速。写真では新逢坂山トンネルの坑門は跨線橋のさらに先にあるため見えないが、複々線の線路のうち左の下り線2本が1921年に開通した方のトンネルへと続く線路になる。ちなみに、右にある丸いモニュメントは『北緯35度と大津駅』の碑。

この他に、遺構ではないが、京阪京津線 大谷駅の北へ200m程のところに『逢坂山とんねる跡』の碑と、京都市営地下鉄東西線 小野駅の北300m程の地点の名神高速道南面擁壁脇には『旧東海道線 山科駅跡』の碑が建立され、ここに旧・東海道線が通っていたことを知らせてくれている。
また、本題とは逸れるが、旧・東海道線の稲荷-京都 間が奈良線に転用された後、廃線になった旧・奈良線部分の跡地のうち京都-桃山 間は近鉄京都線の前身である奈良電気鉄道に払い下げられ、1928年(昭和3年)に竣工し、奈良-京都 間の運転を開始している。このあたりは丹波橋駅の配線も変遷しており、それも含めて、路線ルート変更の歴史を調べていくと、面白い場所であろうとも思う。

[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。