天井川の掘削トンネル探訪(2) 養老鉄道養老線・般若谷川隧道

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[場所]養老鉄道養老線 石津-美濃山崎

天井川の鉄道隧道の中でも掘削トンネルを
特に限定で訪ねる不定期シリーズです

中京地区を走る養老線は1つの路線名で呼ばれているが、実質的には岐阜県の大垣駅を境にして、桑名-大垣 と 揖斐-大垣 間では運用が分かれており、別の線路と言っても過言ではないだろう。ところで、この養老線の桑名側には天井川の掘削隧道が3本(水無川も含めれば4本?)ある。
ということで、南(桑名)側から順に、本回ではまず 石津-美濃山崎 間に掘られた天井川トンネルの「般若谷川隧道」を紹介しよう。

トンネルが短く、上の丘が低いのが天井川隧道の特徴…と前回に記したが、この般若谷川トンネルも同じ要素を持っている。写真は北(大垣)方の坑門で、タイトルとの連続写真(こちらのが先ではあるが)になる。電車は620系D21編成621F。
天井川については、以前の2016年1月6日アップ「日本で最初に作られた鉄道トンネル石屋川隧道を訪ねてみた」の記事中でも説明しているので詳細はそちらに譲るが、まぁ、地平レベルより水面が高い河川と言えば理解していただけるだろう。
さて、この般若谷川隧道を訪ねるには石津駅からが便利で、北(大垣)方700mくらいの所にある。
まずは石津方の坑門を見てみよう。

南(桑名)方の坑門は間近直上に岐阜県道1号線の跨線道路橋があるため、全体像を眺めることができない。写真ではトリミングしてしまっているが、撮影地点の真上に跨線橋がある。電車は600系D04編成604F。
南(桑名)方の坑門は少し離れて眺めても坑門全体は見れない。電車は620系D24編成624F。
左が南(桑名)方の坑門で、右の道は上写真の右に写っている坂。トンネルの上に山(丘)がないのが判る。
上写真の坑門上の扁額(へんがく)。文字・意味ともに???(謝)。
上々写真右の坂道の先に川面がある。
次は、この道を登って、どんな河川が流れているのか、眺めていこう。

上写真の坂道を登った先に開けるのがこの光景。左手前(桑名側)から右奥の下に線路が通っているが、高圧配電線&饋電線(左)と、通信ケーブル(右)は川の上を越えているのが確認できる。
上写真の地点から線路より上流側からの北東向きの眺め。下流すぐに濃尾平野が広がっていて、その先はるかに見えるのは両白山地の山々。
上写真の対岸からで、その左の木のあたりからの南(桑名)方の眺め、当たり前だが、高圧配電線&饋電線と通信ケーブルの位置関係が逆になっている。画面左に養老線の架線柱が窺える。
般若谷川の北(大垣)側はすぐに斜面にはなっておらず、平地が続いている。上空に高圧配電線&饋電線があるのが、この下に線路が通っている証し。

余談になるが、養老線と並行する国道258号も、般若谷川をトンネルでくぐっている。

国道258号線の天井川トンネルの南(桑名)方の坑門。左の扁額には「般若谷トンネル」と記されている。
この道路トンネルは「般若谷トンネル」という名称で「川」の字がない。なので、谷にトンネル!?と、よーく考えると変だが、上に河川が流れているから、それが「谷」なんだなと考えれば不思議ではなくなる(笑)。なので、これ以上考えてはいけない。
では川面から北(大垣)側に斜面を下りて、大垣方の坑門を見にいこう。

北(大垣)方の坑門を美濃山崎第5号踏切東側から眺めたところ。高圧配電線&饋電線がトンネル内を通らず、川の上を越えているのが判る。電車は7700系TQ03編成7903F。
上の踏切の線路対面西側からの眺めで、通信ケーブルも川の上を越えているのが確認できる。電車は7700系TQ12編成7912F。
北(大垣)方坑門の全体像。こちら側には扁額がない。電車は620系D21編成621Fで、テールランプが示す通り、上写真の踏切からの後追い写真。
般若谷川トンネルは川幅(土手を含む)よりも倍くらい長い。そんな特徴を加味して眺めていて感づいたことだが、このトンネルは天井川隧道と言っても間違いではないが、とちらかと言えば扇状地をくぐるトンネルなのではないか、ということ。
まぁしかしコレは実際に現地を訪れなければ気づかない地形であり、河川の下を貫いた隧道なことは事実なので、シリーズの仲間に加えさせていただいた。
天井川をくぐる掘削隧道は、ココを除いて国内に前回1本と、あと5本(水無川を除く)を確認している。その「あと5本」がドコなのか? 折りを見てぼちぼち記事にしていくので、楽しみにしてていただけたら幸いだ。

ここに掲載の内容はアップ日時点の情報になります。その後に状況の変化や、変更があった場合にはご容赦ください。

[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。